笑っていいかも!?から見る化石化した女性差別論
2010年12月4日の20:00から22:00まで、NHK教育でETVワイドのともに生きる、バリアフリー・バラエティー『笑っていいかも!?』があった。
当日のインターネットTVガイドの番組詳細には、以下のことが書いてあった。
ETVワイド ともに生きる「笑っていいかも!?」
2010/12/04 20:00~2010/12/04 22:00(NHK教育)
地上デジタル(2)
ドキュメンタリー・ルポタージュ
Gコード 858100
障害者のバラエティー番組から心のバリアフリーについて考えます(1)お笑いパフォーマー決定戦!車いす漫才ほか▽(2)笑いの真剣勝負!運動会で罰ゲームもん絶(3)鈴木おさむも参加!
「障害者の、障害者による、障害者のためのバラエティー番組」をおくる。また、放送作家・鈴木おさむさんとの企画や障害者が体を張って”肉弾戦”に挑む「バリアフリー大運動会」などの企画を通して、障害を笑うのではなく、障害者と一緒に笑えるバラエティー番組の可能性について考える。「障害者=頑張っている」「障害者=感動」など、メディアが取り上げる障害者像に、うんざりしている障害者は多い。海外では今、障害者が笑いを取る番組が続々登場、障害者のリアルな姿を伝えるのに一役買っている。しかし、日本では「障害を笑いのねたにしていいのか」「いじめや偏見につながらないのか」など、さまざまな議論があり、「笑える障害者」をストレートに取り上げるメディアはほとんどない。
当事者が納得していることには他人が口出しするべきではないということに、最も抵抗してきたのがフェミニストだ。ミスコンテストを女性差別であるとして、本人が納得していることでも中止しろと言ってきたフェミニストのことを考えるとよく分かる。しかも、多数派の女が自らが多数派であることの暴力性の認識がなく、「女」であるからと言って女性差別を言ってきたのだから悪質だ。日本のフェミニズムは多数派の女が支配しているために、ミスコンテストから本当に排除されてきたのは障害者であるという問題について、長らく無視してきた。
『笑っていいかも!?』では障害者の差別問題についての議論も行われていたが、他のマイノリティ問題と合わせて考える視点がなかった。障害者問題は少数派問題であるので、他の少数派問題と合わせて考えるとどうなるのかという視点が必要だ。例えば、部落問題を考えるとどうなるのか。
第41回大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作である、上原善広『日本の路地を旅する』(文藝春秋) は、部落地区出身の上原善広によるものだ。この上原善広の言っていることも、部落問題の認識が変化してきたことのあらわれだ。同和団体には、部落解放同盟(解放同盟)の糾弾を批判する全国地域人権運動総連合(人権連)があり、それと自由同和会(同和会)の三団体が政府の交渉対象になっている。
人権連は部落差別は解決したと言っているが、実際には結婚差別に顕著だが部落差別はある。だが、解放同盟や、さらに過激な新左翼による差別糾弾は、部落問題に触れるのをやめさせ、部落問題を考える者たちを怯えさせ、部落問題を地下に潜らせて、差別そのものを温存させる。
『日本歴史大事典』(小学館)の「差別語」の項目に、渡辺友左が以下のことを書いている。
わが国の近・現代で、歴史的にみて最も重大な意味をもつ差別は部落差別であるから、差別語も部落差別に関するものが歴史的には最も重大なものということになる。
穢多(えた)という差別表現は、言ってはいけないとされる。しかし、渡辺友左が言っていることも踏まえて、この穢多という表現を言う社会こそ目指すべき社会だ。差別表現であるとして告発するのではなく、穢多という表現を、悪意ではなく、日常生活の中でも使える社会が部落差別がなくなった社会だ。
『笑っていいかも!?』では、障害者から発信のお笑いの文化と言っていた。多数派の者たちの悪意ある見世物にならない限りは、障害者の当事者がお笑いをしたいというのなら問題がない社会を目指すべきだ。差別問題は、多数派から少数派への差別が最も問題であるのが原則だ。『笑っていいかも!?』のように、少数派が多数派の見世物になる可能性があることでは、多数派の暴力の視線に注意する必要がある。
フェミニストが批判してきたミスコンテストは、見られるのは多数派の女たちだ。この見られる対象が多数派なのか少数派なのかの違いが、今回の『笑っていいかも!?』とは全く違う。その多数派のためのミスコンテストで、個々の多数派の女が納得して参加しているミスコンテストにもフェミニストは女性差別であると言って中止を求めてきたが、ミスコンテストから排除されてきた少数派には関心がなかった。それは、多数派の女が多数派の暴力に無関心だからだ。
『笑っていいかも!?』のような路線は差別解決のための手法の一つだが、ミスコンテンストのフェミニストの対応のように、多数派の暴力にも気付かずに女性差別を言ってきたフェミニストの鈍感さを考えると、日本のフェミニストこそが差別問題の解決を図るどころか、差別利権を温存させたい勢力だ。欠格条項の歴史や障害児教育の歴史、学童疎開の対象外になった障害児がまさに死に直面していたことなど、多数派の女よりも障害者のほうが歴史的に差別されてきた。
『笑っていいかも!?』を見ていて思ったのは、多数派から差別されてきた障害者という少数派でも積極的に既存の差別論を乗り越えようとする動きがあるのに(そしてその動きは、部落問題や同性愛問題にもある)、多数派の女に支配された日本のフェミニズムは、未だに多数派の女への差別問題に固執し、少数派への理解がないということだ。日本のフェミニズムが少数派への理解があるというのは、フェミニストの多数派の暴力による思い込みだ。日本のフェミニズムが少数派に暴力を行使してきた例などいくらでもあるし、それが日本のフェミニズムの歴史と伝統である。
フェミニストはまるで念仏のように、「フェミニズムには多様性がある」「フェミニズムはこれだけ相互批判をしている」と言う。しかし、そもそも日本のフェミニズムは、多数派によって支配されているということに対する反省がなさすぎる。フェミニストは多数派の女の暴力の反省をし、主張を大きく修正しなければ、時代の趨勢から取り残されて化石化した差別論だけが残って、そのうちに淘汰されるだろうということを、『笑っていいかも!?』の試みは示している。日本のフェミニズムを自画自賛するフェミニストには、それが届いただろうか。
反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。
2010年12月掲載