女性差別は多数派女の私物

片手落ちについては、片手落ちを片手が落ちたという意味で言うのは言葉狩りとよく言われる。元々の意味を考えて考えろと。それでは、手数が足りないとかはどうなるかなど。しかし、元々の意味など関係ないのだ。それは、女性差別で考えれば分かる。女性差別用語の場合には、元々の意味など何も関係なく、使われる文脈で「いかなる用語でさえ」女性差別になる。女の子という意味には、元々は女性差別の意味はないのに、何でセクハラになるのかと言ったらどうだろう。

それは、文脈で考えろと言われる。そして、男女には権力の勾配があるから、女性が不快に思えばセクハラであると言われる。男女の権力関係で、女性差別用語はいかようにも受け取られるのだ。それでは、片手落ちはどうなる。元々の意味など関係なく、無意識、意識的に障害者を蔑視していると受け取られても、片手落ちには障害者差別の意図は「一切ない」と言い張る声が今でも強い。ここにあるのが、差別の整合性の問題だ。権力の勾配は男女には優位に認めても、健常者と障害者には認めたがらないのだ。

ここに、健常者の女性の人権ばかりを重視して、障害者差別を放置してきたことがあらわれている。片手落ちも腰砕けも失脚も、健常者至上主義の発想から生まれてきたもので、人類とは健常者の歴史である。これを認めないのなら、女性差別も一切考える必要はない。男社会からの差別はどんなことでも認めても、健常者社会からの差別は言葉狩りなど通じるわけがない。片手落ち、腰砕け、失脚が障害者に対する人権侵害であると言わないといけないのは、健常者の女たちにすら女の子と言ったら強く女性蔑視と批判され、社内ではセクハラと言われ、文脈を考慮しないといけない社会になってるからだ。

それでは、障害者を腫れ物にする社会になる。障害者とも笑って過ごせる社会にしたいだと。今現在の時点で、女の子と健常者の女たちに言うことが女性蔑視であることは、女性を腫れ物にして扱いにくい社会にしているとは言われない。それは、正当な女性蔑視として認められている。なぜ、障害者の場合には女性と違って、腫れ物になるなど叫びたがるのか。なぜ、女性の場合には腫れ物ではなく、正当な女性蔑視と言うのか。これは、世の中の歴史教育が、障害者差別よりも、健常者の女たちへの「差別」なるものをあまりに重視してきたから差別の整合性が全く抜けているからだ。

健常者の女たちと障害者の間にも優位な権力の勾配があり、健常者の女たちは障害者に歴史的抑圧の責任を持つものだ。日本では、日本版フェミニストの旗手であった平塚らいてうが断種を支持した。戦後の反原発運動でも、女性団体が入ってくると、障害児が産まれたらどうすると言ってきた。まるで、原発が障害者量産機であると言っているようだ。日本の女性史、女性運動は優生思想と密接に結び付いてきた。産む産まないは女の権利という時に、障害者の選別はすでに始まっているのである。

女の子は女性に対するセクハラだが、片手落ち、腰砕け、失脚などなどの用語は何も問題がないとは一体何を言ってるのか。名称でも、女性医師と言うのをやめて、医師と言えなども言われる。しかし、盲目の医師の時には、医師と言えとは言われない。女性蔑視と思われるのはすぐさま修正が入るが、それに比べて、障害者にはあまりに無頓着である。今の時代は、すでに女性に対しては、十分すぎるほどに腫れ物扱いである。しかし、歴史的に見て、健常者の女たちが最も差別されてきたというのは、明白なでっち上げである。

しかし、このでっち上げがまかり通って、女性蔑視だけ声高に叫ばれるのは、女の数が多くて声が大きいからで、差別の程度が酷いからではない。日本の歴史的差別で最も熾烈な差別を受けてきたのは、被差別部落民である。しかし、その被差別部落民の糾弾とやらの勢いも、現在の女たちの何でも女性差別の糾弾の勢いには勝てるわけがない。それほど、世の中は、何でも女性差別がまかり通り、障害者より被差別部落より、同性愛者たちよりも、健常者・非被差別部落・異性愛者というマジョリティそのものの女たち、多数派の女たちの「差別」ばかりがまかり通る。

これは、明らかに異常事態である。なぜ、多数派の女たちの「女性差別」ばかりまかり通るのか。ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』が訴えることにも書いたが、フェミニズムは白人の女たちが支配してきてそれは続行中なことを考えると、フェミニズムとは多数派の女たちに都合よく使われてきたものだ。多数派の女たちの何でも女性差別がまかり通り、マイノリティ差別のほうが遥かに酷いのにそれを通り越して、マジョリティの女たち優先になる。

これは、確実な予想だが、こんな差別の整合性を無視したことを続ければ、人工知能に正義の鉄槌を下されて、多数派の女たちが痛い目に合うようになるが自業自得そのものだ。女性差別という用語は、歴史修正主義にも堂々と使われ、反知性のためのものになっているのは、人工知能でないと是正できないのか。それほど、現在の多数派の女たちが人権を我が物にし、勝手気ままに何でも女性差別にしている現状がある。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2015年12月掲載



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