障害者とお笑いポルノと感動ポルノ
まず、大前提として、NHKスペシャル『魂の旋律 音を失った作曲家』の佐村河内守の件で、障害者を感動ポルノにしたのがNHKであるのに、NHKはこの佐村河内守の件は有耶無耶にして終わらせてしまった。NHKは感動ポルノを批判するなら、この佐村河内守の「障害者の音楽は素晴らしいから感動するべきだ」としてきた件を徹底的に自己批判してからするべきだという指摘がなさすぎて、NHKを礼賛している。
受信料徴収をしている公共放送の看板番組のドキュメンタリーの感動ポルノは放置しておいて、民放批判に摩り替えるのは悪質すぎる。
2016年8月28日(日)のバリバラの生放送で、「検証!<障害者×感動>の方程式」があった。この番組を見た「人権派のインテリ」であれば、このバリバラの番組を称賛しないといけない全体主義が恐ろしすぎることもあって、この番組の何が問題なのかを書いておく。
そもそも、定義をぶち壊してしまうが、ポルノを悪の呼び名にするのは正しくない。浮世絵が日本文化の誇りと言いながら、その浮世絵師たちが春画を書いていたことをどう思うか?ポルノを悪にした入り口の法規制で、言論と表現の自由を制限してきた歴史をすっかり忘れたのか?という問題がまずあるが、この基本的な批判自体が行われていない。
障害者に対する感動ポルノが問題であるのはその通り。それでは、障害者に対するお笑いポルノは問題ではないのか?このバリバラでは、この視点を出すと番組が成立しなくなるので絶対にタブーなのだ(そもそも、障害者を笑いに仕立てるのは見世物小屋でやってきたことだ)。
障害者が番組の企画に沿ってお笑いを演じる。それを見た健常者に向かって、「あなた、ほら、今ここが笑うところですよ!」「ほら、障害者のお笑いって面白いでしょ!」「ほら、さっさと笑いなさいよ。障害者が必死に笑いを提供しているのに!」という姿勢は、障害者に対するお笑いポルノではないのか?「さぁ、健常者の皆さん、障害者のお笑いをみんなで笑いましょう!」と。
しかも、障害者の笑いであれば、自らの障害を笑いのネタにしなければならない。障害者でも、健常者がやるような漫才をしてはいけないのか?障害の程度に合わせて笑いのネタをやれという圧力は、お笑いポルノだ。
障害者×感動は障害者差別だが、障害者×お笑いは障害者への温かい眼差しであるとは?障害者を感動の道具として扱う無意識の差別と言いながら、障害者を笑いの道具として扱うのは差別でも何でもないとは?同性愛者の男性に、オネェとして嘲笑するのもお笑いポルノでは?オネェとして嘲笑することは、ゲイへの蔑視であるとする批判はある。障害者はゲイよりもさらに声を上げ辛い困難さがある。
女性差別で考える。障害者は健常者と法的にも同じ位置に付いていないのは、戦後もずっとそうだった。女性の選挙権の制限は「戦前」までだが、障害者は「戦後も」選挙権が制限されてきた。それなのに、NHKは女性の選挙権制限は大々的に女性差別と言ってきたが、障害者に対するそれは沈黙してきた歴史がある。
障害者に対する優生手術は、1996年までの優生保護法にあった。健常者の女性へのトイレなどの施設の充実や、女性専用フロアなど健常女性は障害者よりも至れり尽くせりの状態なのは、スポーツ分野でもそうだ。パラリンピックを廃止してオリンピックに統合すべき理由とはの視点は、一切無視されて女性差別ばかり言われてきた。
NHKは受信料を徴収している公共放送であるのに、歴代パラリンピック競技の生中継は一切してこなかった。視聴率に頼らない放送ができる公共放送であるにも関わらずだ。民放はどうしたではない(民放とそんなに比較するなら、NHKは民営化するのか?)。このNHKの障害者スポーツ蔑視をバリバラでは繰り返し批判するべきだ。オリンピック統合の記事に書いてあるが、障害者は頑張ったという感動ポルノは障害者スポーツ報道で延々とされてきたのに、その障害者スポーツを無視してきたNHKの姿勢を批判できずに、NHKで感動ポルノを批判するとは?
それなのに、どうだろう。女性に対するお笑いは、女性差別と激しく攻撃される。女性のお笑い芸人がババアとかブスとか言ったり、自虐ネタを言うことも女性差別と言われる。障害者とゲイという社会的少数派にはお笑いポルノを散々しながら、健常女性という多数派へのお笑いポルノは女性差別と批判するのだ。女性の性的なことをお笑いにすると、女性の性を商品化していると叩かれる。
障害者は健常女性と全く同じスタートラインに立っていないのに、お笑いポルノにされている。健常女性への差別状況と比較すれば、障害者のお笑いは、まずは、障害者への社会的差別を健常者と同等になくしてからにしろとか、障害者差別を放置するために障害者お笑いを使うなと言われても何も不思議ではない。
女性の性の商品化につながるお笑いはNHKではできないわけだ。女性が水着で胸を強調したお笑いなど、NHKでは一切できない。それよりも、障害者のお笑いポルノのほうが差別の程度が低いから、障害者お笑いがNHKで存在している。これは、歴史の誤謬で、私宅監置や教育の機会均等の差別史を考えても、健常女性への差別のほうが障害者よりも重視されるのが間違っている。
障害者差別よりも女性差別のほうが腫れ物扱いになっている。障害者の当事者が自らのその障害をお笑いにすることのほうが、女性が水着になって胸を強調するお笑いよりも差別の程度が低いわけがない。NHKは女性が水着になるお笑いもできないくせして、何を偉そうに、障害者のお笑いポルノは正当化しているのか。
結局、障害者のお笑いポルノが正当化されるのは、健常者様が障害者をいじめや差別の対象に見ることができる心地よさがあるからだ。障害者へのお笑いポルノも、障害者への差別を助長するとすら言えないバリバラのどこが尖っているのか?障害者への感動ポルノは問題だ、だから、次は、お笑いポルノで障害者をダシにしようですか?
障害者差別を笑いに変えるのは問題なく、女性差別を笑いに変えるのは絶対に許されないのはどうかしている。障害者お笑いも偏見を正当化しているが、障害者は全体の数が少ない少数派なので、多数派である女性に比べて、遥かに抗議がこないから扱いやすい。
NHKの教育番組だからとバカの一つ覚えで質が高いと思い込むのがいるので、こんな障害者お笑いが常道化すれば、障害者のくせにお笑いができないのかとか、飲み会で障害者に笑いを強要するとかが、絶対に起きる。障害者は笑いをお膳立てしてあげないと、健常者には近づけないのだ。
感動ポルノやお笑いポルノの存在なしに、健常者のようにそこにいる存在として扱ってもらえないのだろうか?ということが重要なのに、なぜ、お笑いポルノを障害者に押し付けるのか?
障害者は特別な存在ではないのはその通りなので、そこをもっと具体的にやっていけばいい。分かりやすいのが眼鏡だ。眼鏡をかけている「健常者」は自分が、価値がない障害者とは絶対に違うと思い込んでいる。しかし、そのちっぽけな健常者の沽券は、地震に合い、眼鏡の場所が分からなくなるとオロオロして、余震の中で眼鏡がなくふらふらと歩いて、まさに障害者であることを自覚するのだ。
眼鏡をかけている「健常者」は山ほどいるので、お前たちは障害者補助器具の眼鏡をかけている障害者であると繰り返し言ってやればいい。感動ポルノやお笑いポルノを障害者に対してしてしまうのは、健常者は障害者と同じ人間であると思うのを恐れているからだ。これは、黒人と同じ人間であると思うのを恐れてきた白人とも似ているだろう。
番組内でBBCを持ち上げていたが、BBCは有色人種へのレイシズム報道をしてきているという批判ができない言論空間は絶対に避けるべきだ。障害者も健常者と同等であると言っても、社会的環境が整わないと無理だ。そのためにやるべきことは二つある。世代間格差での高齢者特権の廃止と、人権では健常者女性の差別問題に偏りすぎていることの是正の二つが必要である。
NHKではこの女性差別が最もタブーになっている。例えば、在日韓国人問題を考えず日本万歳という番組はNHKは何度もしているが、胸を強調したメイドが出ただけで女性差別と誤るのがNHKである。女性差別こそが最大の腫れ物であるが、障害者問題是正のためには、健常者特権の廃止が必要なので、人権で健常女性に偏っていることの是正は絶対に必要である。
番組内の企画で「ココが変だよ健常者」が出ていたが、上記のパラリンピックの記事に書いたような、健常女性への差別問題の比重の重きが、障害者差別を助長してきたという視点は絶対に編集されるだろう。
反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。
2016年8月掲載
- 草食系男子は似非科学 疑似科学
- 売春防止法:売春買春は違法で禁止だが,両方に処罰規定はない
- 女性器切除にある人種差別とイスラム蔑視
- 女たちの買春:江戸時代の男性売春者を買春の女性買春者と日本女性の処女性
- ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』が訴えること