塩村文夏へのセクハラ野次でも沸き立つ優生思想

塩村文夏が都議会で、「産めないのか」や「自分が早く結婚すればいい」と野次を受けたことが問題になっている。女性手帳の時と同じで、またあることが置き去りにされている。女性手帳の時には、産む産まないは女性の権利で、女性の自己決定権をしっかりと教育する必要があるなどと言われていた。塩村文夏の野次でも、またその問題が繰り返されている。産む権利の女性の自己決定権を声高に言う時に、常に対立してきたのは優生思想で、障害者の存在だ。優生思想と日本の女性運動に首を突っ込んだ者に有名なのは、平塚らいてうだ。

平塚らいてうの「避妊の可否を論ず」では、「優生学的立場から、法律によってある種の個人に対し結婚を禁止したり、断種法の施行を命じたりする事は我国でも今すぐにでも望ましいことです」と言っている。日本の女性運動は優生思想と密接に結び付き、共に今まで「発展」してきた(現在でも、平塚らいてう研究の米田佐代子のらいてう賛美など)。このことの反省が不十分なままなので、女性手帳などの女性の出産の問題がある度に、「産む権利は女性にあるのだから、男は口出しするな」という、一見すると男社会を批判しているようでいるから擁護されるが、それは裏を返せば、優生思想である。男社会批判は、優生思想の隠れ蓑になってきた歴史と現実がある。

人権問題の深刻度は少数派になるほどに増すという基本的な原則を無視して、日本の現状は、障害者よりも多数派の健常者の女性への差別問題のほうが声高に主張される。女性手帳の時にもそうで、今回の塩村文夏の件でも、そこに潜む優生思想の問題を指摘する隙さえ与えないほど、女性差別一色の全体主義になる。日本は、いつから、女性差別になると感情論の先走りになって、全く冷静な分析ができなくなったのか。女性器が切除されていると報道されれば、女性差別一色になるが、そこで白人の女たちがしてきた根深いレイシズムやイスラム教蔑視への批判は封殺される。

人権問題で、女性差別が他を大きく無視して大問題になるのをいい加減に是正しないと、将来的に手痛いしっぺ返しを食らうだろう。障害者がいるのに、そこで産まない権利があるなどと平然と言うことは、本来は、塩村文夏へのセクハラ野次とは比較にならないほど酷いことだ。障害者は産まれてくる価値がないと言っているのと等しく、実際に生きている障害者には殺してしまえと言っているようなものだ。そもそも、女性に対するセクハラよりも障害者ハラスメントのほうが遥かに酷いのに、それも一切無視されている。

産む産まないは女性の自己決定権と教育するのは、日本の女性運動伝統の断種の「正しさ」でも教えるつもりなのかと言いたくなるぐらいに、女性手帳の時にも感じたことが、また再燃している。「子育ての現場で社会奉仕100時間」をさせろなどと言っているが、現実の社会は子育てに一切関わらない人たちも生きている。子育ての大変さを味わっていないのは社会人として幼稚であるという言説に刻まれている優生思想にも、無自覚なままだ。教育での女性の人権には時間が割かれているが、それに比べて障害者の人権教育が無視され続けてきているから、女性の出産の時に、常に優生思想が炙り出されてくる。

受信料を徴収して公共放送を謳っているNHKが、『バリバラ』で障害者を笑いのネタにしながら、パラリンピックの生中継は一切しないことなどを見ても、現実の障害者の環境は健常者の女性よりも遥かに酷いことが分かる。女性の場合に、女性の性を笑いネタにするが、オリンピックの女子選手の生中継は一切しないとなったら女性差別と熾烈に批判されるが、障害者の場合には笑いのネタにだけしても別に問題にはならない。1900年の第二回のパリでのオリンピックで、すでに、女子選手は出場していた。近代五輪の始祖のクーベルタンは「より高く・より強く・より速く」と言ったが、それを本当にすると、女子選手がオリンピックに出られなくなる。オリンピックに女子選手が出て活躍できているのは、男子とは別に女性枠を作っているアファーマティブアクションの一環だ。

障害者をオリンピックにも入れるようにと言うと、必ず、規則が違うとか、健常者に劣るから不可能だと言う。それを言うと、オリンピックに女性枠があるのも不自然になって、オリンピックは全ての競技で男女混合で同じ規則でしないといけなくなって、女子選手は活躍できなくなる。女子選手が女性枠でオリンピックに1900年から出ているのに、それから100年以上経っても、オリンピックに障害者枠はできない。ここを見ても、健常者の女性と障害者の人権には、大きな壁がある。このオリンピックの例は分かりやすいが、こういう健常者の女性と障害者の人権状況との大きな隔たりが各方面のあらゆる分野であるので、女性の人権が語られる時には、障害者が無視されるのは自然で、優生思想が行き渡る。

選挙権でも女性が制限されたと言って、それでお仕舞いになることが定番化しているが、障害者は戦後も選挙権を制限されてきたことなど、こういうことこそ徹底的に教育したほうがいい。女性手帳の時からも続いてきている優生思想であっても、女性差別で批判されている対象では、健常者の女性に少しでも歯向かわないように飼いならされているのが、障害者としての名誉健常者だ。今まで、女性差別を解消するに向けて、必ず、障害者への差別も共に解消していくと言ってきたわけだが、結果的な現実として、それは詐欺に近い。

オリンピックへの健常者の女子選手の参入から途方もなく遅れて120年も経っても障害者は東京オリンピックに出られないのに、スポーツでどれだけ女性が大変な目に合ってきたかばかりが言われ、健常者の女子よりさらに過酷に大変な環境である障害者スポーツの途方もない苦労は無視される。塩村文夏への野次の件でも、ジェンダーの問題が言われているが、ジェンダーは単なる辞書的な文化的で社会的な性差だけではなく、本来のジェンダーは身体的な差異まで含む広い概念だ。しかし、ジェンダーが語られる時には健常者が前提で語られることばかりで、最後まで残る至上主義である健常者至上主義をジェンダーが内包してしまっている。

今現在でも、戦闘機は自動操縦され、将来的には自動車も自動運転化され、サイバー戦争の深刻さはますます増していく。国の命運を賭ける戦争であっても、健常者の優位性が過去より薄れているのは明らかだ。障害者が戦争を主導し、障害者が国を救う未来の可能性もある。車椅子の身体障害者よりも、能力が劣る健常者はごまんといる。国の定義を変える戦争でさえも健常者の優位性が薄れている中で、健常者だからと偉そうにふんぞり返っていると、将来的に、障害者から健常者は手痛い仕打ちを受けても仕方がない。

女性手帳の時にも、塩村文夏への野次でも、産む権利の女性の自己決定権を何のためらいもなく主張する者たちには、人権を偉そうに語って欲しくもない。なぜ、女性の自己決定権を語る時に、頭のほんの片隅にでも障害者の存在が一切浮かばないのか。今まで、自分の産んだ子供が障害者だからということで、母親に殺されかけた経験がある障害者のことをどう思っているのか。女だからという理由だけで、母親から殺されることがあるのか。障害者は障害者であるという理由だけで、国からも女性運動の旗手の平塚らいてうからも、そして、母親からも殺されてきた。

優生思想の悪質さは、普段、リベラルぶっているいわゆる左派も、優生思想に染まることが多いことだ。『日本歴史大事典』(小学館)石崎昇子「優生思想」の項目にもある「歴史的には、国家による人口の質と量の管理思想として作用したためにファシズムに還元されやすいが、日本では、断種を否定する民族主義者や断種を支持する左翼も多く、優生思想的言説は複雑で一元的ではない」とあるように、民族主義者はむしろ断種を否定してきた歴史もある。女性団体が入り込んできた反原発運動で、「障害者が産まれたらどうするのか」といった障害者蔑視ともつながる。その傾向が、日本の女性差別の言説における優生思想にも続いている。

障害者が無視され続けるのは、あらゆる面で見られる。浦和レッズの「JAPANESE ONLY」問題を改めて振り返っても、Jリーグから外国人を排斥できるわけがなく、サッカーの観客席で車椅子の障害者用の席がどれだけ用意されているのかといった面は無視されていた。Jリーグでの「JAPANESE ONLY」の問題の本質は、観客席が「健常者専用」で、障害者を排斥してきたことだと言った言論もついに見なかった。レイシズムと障害者のどちらの問題もある時にも、障害者が無視される。

少子化対策と言われる時には、常にと言っていいほどに、優生思想が炙り出されてくる。塩村文夏のセクハラ野次が問題だと声高に言いながら、障害者ハラスメントをすることは正義である。この傾向は、50年後でも続いていそうだ。産めよ増やせよの富国強兵の時代ではなく、結婚しないで出産をしない独身女性が多くいる時代でも、健常者の女性を障害者よりも優遇するのは、結局、健常者の女性への出産期待が強まることになる。女性には産まない権利もあるなどと言うのなら、優生思想での障害者蔑視はやめるべきだ。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2014年6月掲載



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