ポリティカル・コレクトネスとセクハラ

ポリティカル・コレクトネスで、腰砕けや片手落ち、失脚なども言えなくなったり、宗教色も出せないのがおかしいという批判がある。障害者差別や宗教差別などのポリコレが行きすぎだという批判だ。

これは、現実を考えると何もおかしくない。ポリティカル・コレクトネスが最も行きすぎているのはセクハラだが、このセクハラのポリコレには当然視されて批判もされないで、ますます先鋭化しているからだ。

例えば、「君の入れてくれたコーヒーおいしかったよ」と言うのもセクハラになる。「髪切った?」もセクハラになる。ちゃんで呼ぶのもセクハラになる。しかし、これらのちゃんと呼んだり、髪切った?と聞くことなど、もともとは何の問題もないことだ。

片手落ちとかはもともと問題がないことだから障害者差別には当たらないからポリコレの行きすぎと言いながら、入れてくれたコーヒーに対する感謝の意もセクハラになることはどう考えるのか?

さらには、ちらっと見ただけでも、その目つきがセクハラだとなる。そうであれば、健常者が障害者を見る時の目つきで、障害者側が気に食わなかったら障害者ハラスメントでポリコレにならないとおかしい。

セクハラはされる女性側がそう思えばセクハラなのだから、障害者側が健常者の態度が気に食わなければ障害者ハラスメントのポリコレで、健常者が失職にまでなるだろう。

結局、女性に対するセクハラがあまりに先鋭化して、セクハラだけが飛びぬけて批判されているのだから、他の問題でもポリコレを適用しないと全く整合性がないわけだ。

セクハラのポリコレで被害者になる健常者の女性であっても、障害者に対するポリコレで叩かれるべきである。そんなことをしたら何も言えなくなると言っても、感謝の意ですらセクハラになるのだから、それに比べれば片手落ちは一方的などに言い換えればいいだけだ。

セクハラが異様に厳しく、他の障害者問題や同性愛問題などにはセクハラよりは非常に緩いポリコレしか適用されていない。ポリティカル・コレクトネスが正当化される理由は、「君の入れてくれたコーヒーおいしかったよ」もセクハラと糾弾されるのだから、それなら、他のことでもどんどんポリコレを適用しようとなるのは当たり前だ。

健常者のマジョリティの女たちだけが異様に調子に乗って自らが加害者であると思わずセクハラ、セクハラと糾弾する。そこにある優生思想の加害性を厳しく糾弾するために、ポリコレを障害者問題に厳しく適用することが、言論の自由への圧迫か?

それなら、コーヒーに対する感謝の意ですらセクハラになることこそが、すでに、重大な言論の自由への圧迫だが。セクハラのポリティカル・コレクトネスを考えると、日本での神社や仏教などの宗教色を出すこともポリコレになるだろうが、それも、セクハラのポリコレをあまりに厳しくしたためで、まさに自業自得だから諦めるしかない。

そして、こうやってポリコレが進んでいくと、どうなるか。まさに何も言えなくなるだろう。全ての人間は、何かしらの加害性を持っているからだ。セクハラでは被害者の健常女性も、障害者に対しては、糾弾される加害者側であるように。当たり前だ。平塚らいてうらも断種を支持したのだから。私宅監置をしてきたのだから。

パラリンピックを廃止してオリンピックに統合すべき理由とはに書いたように、障害者スポーツ差別の酷さもある。

こういう何でもポリコレの社会の息苦しさは、破壊的な指導者を必ず生むことになる。そして、破滅的な社会を生むだろうが、その根本の原因は、コーヒーに感謝の意を言うこともセクハラとなるポリコレ社会にある。

こうなると、感謝の意を伝えることもできなくなって、ポリコレに忠実になるほど、礼儀正しい日本人像などもなくなる。

何度も言うが、そういう何でもポリコレの社会を作るのはセクハラのポリコレである。在日韓国人に対するポリコレなど、普段の何気ない発言でもセクハラになるポリコレに比べれば言論の自由がありすぎて大したポリコレでもない。

ポリコレによって破滅的な指導者を生んでしまう危険性を防ぐためには、コーヒーの感謝の意もセクハラになることをやめるべきだが、セクハラポリコレはどんどん先鋭化しているから、国が自滅の道に行くことになるだろう。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2016年11月掲載



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