パラリンピックを廃止してオリンピックに統合(結合)
パラリンピックはできるだけ早急に廃止して、障害者もオリンピック選手としてオリンピックに出るべきである。これをしなければならない理由は明確だ。なぜ、女子選手はオリンピックに出ているのかを考えれば分かる。近代五輪の始祖のクーベルタンは「より高く・より強く・より速く」と言った。これを実際に実行すると、どうなるか。オリンピックは実力主義になる。今のオリンピックは実力主義ではないのだ。クーベルタンの言うとおりにすると、オリンピックは男女混合にしなければならない。そうなると、女子選手はオリンピックに出られなくなる。
そこで、1900年の第二回のパリでのオリンピックでは、クーベルタンの言ったことは、修正されているのだ。その第二回から、すでに、女子選手は出場していた。オリンピックに女子選手が出て活躍できているのは、男子とは別に女性枠を作っているアファーマティブ・アクションの一環だ。そうであるのに、障害者の場合では、120年後の東京オリンピックでさえ、パラリンピックと分け隔てられている。障害者選手は、健常者の女子選手よりも120年間もの間も格下の存在であり続けている障害者差別が厳然とある。その歴史があるのに、メディアでは、オリンピックの健常者の女子選手がどれだけ大変な目に合ってきたかばかりが報道されてきた。
「全ての」障害者がオリンピックにも出られるようにすると、必ず、それは無理だという声が出てくる。しかし、その理由を聞くと、それでは、オリンピックに女子選手が出られているのも不自然になることばかりだ。オリンピックとパラリンピックでは規則が違うから無理とか、健常者と障害者がどうやって同じ土俵で競技することができるのかといった甚だしく見当違いな意見が出てくる。それを、オリンピックの女子選手に当てはめて考えることを1mmも考えられないのだろう。そもそも、オリンピックでは、男子と一緒に女子がすると活躍できないので、女子枠があるのだ。同じ競技なのに、女子のほうが距離が短いこともある。男子と女子は同じ土俵では戦っていない。であるにも関わらずに、なぜ、障害者は健常者と同じ土俵で戦え、障害者枠なんかとんでもないと言うのか。
これは、現在のオリンピックには女子枠があるという当たり前の事実がすっかり忘れられているからだ。規則が違うと言う理由で、女子選手をオリンピックから追い出すことはしない。男子選手に都合がいい規則や、施設上の問題があれば、女子選手のために変更する。であるのに、なぜ、障害者には健常者の邪魔をするなという姿勢になるのか。オリンピックは健常者の祭典なのだ。スポーツの機会均等は障害者のほうこそ侵害されてきたのに、健常者の女性の機会均等ばかり言ってきたのも、人権の優先順序が間違っている。障害者枠をオリンピックにというのを否定するのは、オリンピックに女性枠があるのも不自然になって、オリンピックは全ての競技で男女混合で同じ規則でしないといけなくなって、女子選手は活躍できなくなる。
繰り返し言うが、女子選手がオリンピックに出られているのは実力があるからではない。男女混合の実力主義にはせず、女性枠を特別に設けているからだ。女子選手が女性枠でオリンピックに1900年から出ているのに、それから120年経っても、オリンピックに障害者枠はできない。ここを見ても、健常者の女性と障害者の人権には、大きな壁がある。では、オリンピックに女性枠と同じように障害者枠ができたら、どうなるか。ここで特に困るのが、健常者の女子選手である。スピード感があって躍動感があるのは、最も筋力に優れた健常者の男子選手である。そして、社会の壁と戦いながらも、それでも頑張る姿を演出できるのは障害者選手になる。健常者の女子選手は、この筋力の健常者男子と、抑圧からの克服の障害者選手の間の板ばさみになる。
つまり、オリンピックに障害者選手が出て活躍するようになると、健常者の女子選手の活躍が目立たなくなるのだ。今までは、ずっと、健常者の女子選手が抑圧からの克服を演出できていた。しかし、それは、完全と言っていいほど障害者に奪われることになる。当たり前だ。健常者の女子選手への抑圧など、障害者選手への抑圧に比べれば、何が抑圧なのかというほどちっぽけなものだからだ。120年間も健常者の女子選手よりも抑圧されてきたのだから、健常者の女子選手もその報いを受けるべきだ。メディア報道、特に、公共放送のNHKがパラリンピックの競技の生中継をしてこなかったのも大問題だ。さらに、NHKは女子サッカー選手がどれだけ女性差別に苦しみながらも頑張ってきたかばかりを言ってきた。
健常者の女子サッカー選手は、障害者選手に比べればは、遥かに恵まれた待遇であるのに。やはり、障害者の活躍によって、健常者の女子選手の活躍が阻害されると恐れているのだ。2010年2月12日から開催されたバンクーバーオリンピックでは、日本選手は金メダルが1つも取れなかった。銀メダルが3つ、銅メダルが2つの計5つのメダルの獲得に終わった。2010年3月12日から開催されたバンクーバーパラリンピックでは、日本選手は、金メダルを3つも取った。銀メダルが3つと銅メダルが5つの計11個のメダルを獲得した。オリンピックよりもパラリンピックのほうが、メダル獲得数が2倍以上も多い結果になった。しかし、当然のように、パラリンピックでの活躍は注目されなかったのである。
車椅子テニスの国枝慎吾の活躍などを見ても、相当なものだ。日本中で称賛された女子サッカーの1割くらいでも、国枝慎吾が称賛されればまだマシなほうだ。障害者は競技人口が少ないから、評価が低いのは当たり前と言われる。それを言うと、女子競技はどうなる。男子と比べて競技人口が少ないからといって、女子選手のメダルには価値がなく、金メダルの価値もないなどと言ったら女性蔑視と批判の嵐だ。女子の場合には競技人口に関係なく結果で判断しろと言いながら、障害者の場合には競技人口を出して価値がないと言う。このように考えていくと、オリンピックに障害者選手を出さないといけないのは、実力主義とは関係ない女子枠がすでにあるからで、本来は障害者枠を否定するのなら女子枠も廃止しないと道理に合わない。
メディアは、健常者の女子選手がどれだけ大変かを報道するのではなく、それよりももっと遥かに過酷な障害者選手の報道をもっと増やし、それに比べれば、健常者の女子選手は恵まれているという事実を言うべきだ。今までの報道で、競技人口を無視して結果を重視して、女子の活躍に比べれば男子は情けないと散々言ってきた。これは、男女には権力の勾配があるから、男は我慢しろということだ。それなら、健常者の女子選手と障害者選手には厳然とした権力の勾配がある。障害者がこれだけ活躍しているのに健常者の女子は情けないとメディアで言われ続けるようになることにも、健常者の女性は我慢しなければならないことになる。
障害者スポーツは福祉に過ぎないのに偉そうに言うなというのは、女がサッカーなんかするなというのにも通じる。結局、障害者叩きは、女子の活躍の阻害にもつながるのだ。今まで、女子選手がスポーツ分野でどれだけ女性差別を受けてきたかはフェミニズムの視点からかなり語られてきているが、障害者スポーツのほうが遥かに障害者差別が深刻であったかは見事に無視してきた。それは、健常者の女性も障害者を差別してきたことが明白になるからだ。さすが、日本版フェミニズムの旗手であった平塚らいてうが断種を支持したとおり、その伝統を受け継いで障害者に冷酷な態度を取ってきたフェミニズムの面目躍如だろう。
障害者スポーツ選手がどれだけ結果を出しても、新聞では社会面や生活面で掲載され、スポーツ面には掲載されてこなかった。社会面に掲載され、「障害者なのにスポーツを頑張っているから偉い」という報道が延々とされてきた。これは「障害者のくせに偉そうにスポーツをするな」という本音が透けて見える。健常女性選手に同様のことがあったら熾烈な女性差別批判がされるが、そもそも、健常女性がスポーツ面に一切載らないことがあるはずがない。こういった障害者スポーツ報道史も考えると、健常女性への「女性差別」ばかりがスポーツで言われて、本当に過酷な障害者の環境の整備は恐ろしいほど延々と放置されてきたことが分かる。
障害者スポーツと健常者スポーツが厚労省と文科省で分かれていたのに、健常女性がスポーツで差別されているとばかり言われてきた。スポーツ参加の割合も、健常女性より障害者の参加度合いのほうがかなり低い。障害者選手の存在を完全に抹消して行われたロンドンオリンピックの銀座パレードがあった。女のスポーツなんか手ぬるい遊びだからパレードには来るなと言ったら、女性差別批判の業火に焼かれるだろう。しかし、障害者排除は完全に許される。あの銀座パレードの障害者への仕打ちを見ても、なお、障害者を無視した女性差別ばかりが言われているのを何とも思わないのなら、差別や人権に口出しする資格などない。
人権の観点で言うと、オリンピックから障害者が排除されてきたのがスポーツ分野で最大の人権侵害であるのに、健常者の女子選手だけがどれだけ大変な環境で戦ってきたかと偽装演出ばかりしてきた報道姿勢はいい加減に是正すべきだ。スポーツ分野での最大の被抑圧者は健常女性ではない。健常女性への差別だけを言うことが、障害者差別の隠れ蓑になってきたことも直視するべきだ。多数派に阿るばかりでなく、障害者選手こそがスポーツ分野で最も抑圧されてきたという当たり前の現実に向き合うべきだ。
ここに書いてある視点は、女性の視点が障害者への抑圧に加担するということだ。健常女性のことばかり考えるから、障害者が疎かになる。健常女性の待遇を取り上げることで、障害者差別をしてきたのだ。ここに書いてあることを見ても、オリンピックに障害者の全てを「無理やり」出させるのは障害者へのあまりの優遇で逆差別というのなら、オリンピックに「無理やり」出している健常女性はどうなるのか。やはり、オリンピックは健常者の祭典なのだ。
健常女性への差別は「個人的なことは政治的なこと」だが、障害者への差別は「個人的なことは政治的なことであってはいけない」としてきた。障害者こそが、個人的なことは政治的なことであると宣言して世の中を糾弾するべきだろう。
反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。
2015年12月掲載で、以下追記
この文章を書いた後に、2016年7月26日に相模原障害者施設殺傷事件が起きたが、根強い優生思想があった。そして、報道媒体では、事件の結果を差別意識という文言を繰り返し、障害者差別という当然の文言を言うのを非常に躊躇していた。この事件は、この記事で書いた障害者は健常者よりも価値が格段に低い存在であるとしてきたことの延長にある優生思想であり、こういう障害者差別大量殺人事件を防ぐには、ここに書いたこと、つまり、パラリンピックは廃止し、オリンピックでの障害者選手の活躍を促し、障害者選手に価値があると報道し、健常女性が最もスポーツ分野で抑圧されてきたという偽装演出を転換し、障害者選手こそがスポーツ分野で最も抑圧されてきたと報道すべきだ。
オリンピックの男女間格差をなくせ!オリンピックとパラリンピックの健障格差は都合が悪いから言うな?メダリスト報酬で、健常女性の「被抑圧」ばかり言って、より酷い障害者選手のことを放置してきたことが先鋭的な人権感覚とは?メダリストの健障格差をなくすには、やはり、パラリンピックは廃止するしかない。
なぜ、健常者よりも明白に価値がない障害者を優遇しないといけないのか?これは、ちっぽけな健常者の沽券で実態が見えなくなっている。分かりやすいのが眼鏡だ。地震に合って眼鏡の場所が分からずオロオロして、余震の度に眼鏡がなくてふらふらするのが、健常者なのか?眼鏡をかけている「健常者」は自分は絶対に障害者ではないと思い込んでいるが、眼鏡がないとその健常者性が剥がれるのだ。眼鏡をかけている「健常者」は山ほどいるが、お前たちは障害者補助器具を付けている障害者であると徹底的に知らしめればいい。
障害者は役立たずだからと言うのならば、役立たずの眼鏡使用者は断種でもするのか?世の中には障害者が溢れているわけで、障害者は特別な存在ではない。その障害の程度に差があるだけだ。
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