する男/しない男、する女/しない女という絶対的な壁
「する男/しない男」という区別について、強姦で考えてみる。強姦の件で当然に言われることとして、まず、強姦とは全く関係のない「普通の男たち」なるものがいるという想定がある。そして、その「普通の男たち」なるものは「清い」こちら側にいて、強姦をした男は「汚い」あちら側にいて、その両者の間には絶対的な壁が存在しているというのが、常識のように成立している。
女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性に、以下の文章を載せた。
上野千鶴子 信田さよ子『結婚帝国 女の岐れ道』(講談社)161-162頁
上野 DVの分析をやっていけばやっていくほど、普通の「男らしさ」や「愛」の概念の中に、支配とか所有の観念が含まれていて、「殴る男と殴らない男がほとんど地続きで差がない」という結論になりそうですね。 じゃあ、すべての男を去勢するほかDVは防げないのか。軍事力を持っているアメリカに、武器を使わせないようにするのは不可能だ、というみたいですね。「紳士的な男」には、「紳士的な軍隊」と同じくらいの背理がある。それは、男性性の中に支配と所有が埋めこまれているからでしょうか。
信田 ほんとにそうなんだけど、その説明だけでは、ネバネバしたものが落ちてしまうような気がする。
ここで上野千鶴子が「殴る男と殴らない男がほとんど地続きで差がない」と言っているが、これはそうではないだろうか。この問題で言えば、「オレだけは違う」「オレだけは女性の味方」という一見すると「人権」を考えてきた男たちが、実は問題をこじらせてきたと言える。
そして、さらに「連続強姦魔と普通の男とは連続している」のではないのかということまで書いた。
「する男/しない男」という絶対的な壁の存在があって、「あの出来事はその絶対的な壁の向こう側で起きたことだから」と思い込むその集合体によって、「しない男」は別の世界の住人となる。「しない男」は紳士という称号が与えられて、その紳士の中の紳士の「しない男」が「女性の人権を考えるオレ」なるものへと「進化」していく。
紳士の中の紳士の称号を与えられた「女性の人権を考えるオレ」という男たちが、実はそんなことはないのは、『結婚帝国 女の岐れ道』の上野千鶴子が言っているDVの件でも分かる。「オレは殴る男/オレは殴らない男」という絶対的な壁は存在しない。強姦に対する考え方もその延長である。男の性と強姦は絡まりあっている。もっと大きな枠で言うと、暴力の連続性の問題だ。「する男/しない男」という絶対的な壁が存在するのではなく、程度の差があるだけである。
「する男/しない男」という絶対的な壁が存在し、「清い」こちら側にいるわれわれはその壁の向う側にいる「汚い」あいつらとは人種が違うと考えると、全く違う世界にいる「する男」には何らの社会的政策もしないということにも繋がる。刑務所で服役し、社会への復帰の道もなくていいということになる。こういう考えが進んでいくと、私刑になってしまう。強姦犯には被害者やその親族などが去勢しろ、被害者遺族は殺人犯を殺していい、被害者は放火犯の住居を放火していい、なぜなら、あいつとは人種が違うのだから。
「する男/しない男」で終わってしまうと一方的な分析で、フェミニズムの下僕としてフェミニズムに居心地のよさを与える狭量な男性学になってしまう。ここからさらに言えるのは、「する女/しない女」にも絶対的な壁は存在しないということだ。「ワタシは「清い」こちら側にいて、あの女は「汚い」あちら側にいる」という絶対的な壁は存在しないし、女たちは連続している。「する男/しない男」の指摘だけで終わってしまうのは「癒しのナショナリズム」のような「癒しのフェミニズム」であるし、歴史修正主義のジェンダー版である「ジェンダー修正主義」と言える。
「する女/しない女」ではなく、女たちは連続していると書いたのが、女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性だ。
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2009年11月掲載