女のセクハラ加害:女の高身長欲望

女たちが利用する見合いサイトや結婚サイトなどでは、女たちは男たちの身長の選択をしている。まじめなサイトでも男たちの身長の欄があり、女たちは平然と男たちを身長で選択している。例えば、「エキサイト恋愛結婚」のサイトでは、男たちの身長が表示され、女たちはそれを平然と選択している。

『情報7days ニュースキャスター』でも婚活の番組があっていたが、そこでも当然に、結婚・見合いサイトで175cm以上の男を身長で選んでいる一般の女の光景が放送されていた。以前にテレビ東京でも結婚紹介所の番組があったが、そこでも一般の女が男の情報を見て、「もっと身長があったら…」ということを平然と言っていた。女たちに聞く理想の男の調査結果などでも、男の身長の高さがあげられている。

こういう女の男への高身長言説は、頻繁に目にする光景だ。日本の女たちの高身長欲望は、実体験でも分かる。今まで女たちから、「背が高いね」「身長いくつ?」などと、何十回も高身長のことを聞かれてきた。強調しておくが、この論考を書いている筆者は高身長なので、「低身長の劣等感でこんなことを書いているのだろう」と思う人には、自明の前提が崩れまくるものになっているだろう。

当初は、このように高身長のことを言われるのは、特にセクハラだとは思わなかった。これがセクハラと思うようになったのは、男から女へのセクハラ規定を聞いて、「こういうことでもセクハラになりますからね!」などと言われてからだ。

ある学者フェミニストは、「セクハラの99%は男」と言い放った。この論考の主な批判の矛先は、主に、こういう女としてのセクハラ加害を平然と無痛化してきて、男のセクハラ加害ばかりを言ってきた学者フェミニストたちに向けている。「セクハラの99%は男」というのはもはや捏造なので、批判されるのは当然だ。

何十回も女たちから高身長のことを聞かれてきたその実体験の記憶たちを、抹消しろというのか。こういう権威からの学者フェミニストの言説は、女としての無痛化を図るために無意識に言うのだろう。こういう学者フェミニストは、女としての無痛化を図るために、女のセクハラ加害の研究をする者にパワハラで研究を阻害をする者も少なくないだろう。

山田秀雄『女は男のそれをなぜセクハラと呼ぶか』(角川書店)の121頁には、「「ちゃん」づけや「女の子」、「お譲さん」といった呼び方」のことが書いてある。「今はそういう呼び方はセクハラになる」と書いてあり、発言型セクハラとしている。

女に「ちゃん」と言う男がセクハラならば、女の男への高身長言説は、当然にセクハラになる。しかし、女の高身長言説がセクハラという指摘は非常に不十分だ。一般女性が、高身長のことを聞いてくるならまだ分かる。ここに載せている批判の矛先は、特にフェミニストたちに向けている。

特に腹が立つのは、「「ちゃん」と女性に言うのはセクハラ」などと言うフェミニストの女たちが、女たちの高身長言説のセクハラに無批判なことだ。こういうセクハラ主張をする女たちの無自覚さが腹が立つ。

セクハラ冊子などでよく書かれているのは、「人事院規則10-10」の「セクシュアル・ハラスメントの防止」を元にしているものが多い。そこにあることでよく言われるのは、「男が女にスリーサイズを聞くことはセクハラ」というものだ。この男から女へのスリーサイズのセクハラと、女から男への高身長言説のセクハラでは、後者の女の高身長言説のセクハラのほうが遥かにひどい。

低身長の男は、どうやって身長を伸ばせばいいのか。平均身長以下の男は、どうやって身長を伸ばせばいいのか。生まれつき身長が低い男は、どうすればいいのか。バスト、ウエスト、ヒップと言われるスリーサイズを自分の理想のものにするのは、身長の手術に比べれば遥かに簡単なことだ。

平均身長以下の150cm台の男が骨延長手術をして、女たちが平然と主張している175cm以上の身長にまでどうやって伸ばせばいいのか。手術ではなくて、身長サプリメントで伸ばせというのか。骨端線が閉鎖していたら、どうすればいいのか。身長は遺伝による影響もあるので、生まれつきの制限もある。

スリーサイズに関することで、「グラビアの水着の女の写真がこれだけある」などと言う者たちがいる。雑誌などにグラビアの女たちの写真があって、そこにスリーサイズが書いてあるのは、仕事上のことだ。そこには、仕事上の同意がある。むしろ、グラビアで水着写真が掲載されているのに、スリーサイズに全く関心が払われずに掲載されないほうが、グラビアの仕事としては不自然なことだ。

女たちの高身長言説は、それとは全く異なる。仕事でモデルなどをしている男ではないただの一般の男たちにでも、同意も何もなく、女たちは何度も身長のことを言うからだ。これは女に例えると、グラビアの仕事ではない一般の女に、日常的にスリーサイズを聞くようなものだ。スリーサイズよりも身長のほうがどうにもならない制限があるので、女が一般の男に身長を聞くのは、男が一般の女に「バスト何カップ?」「ウエストどのくらい?」「ヒップはどのくらい?」と3回同時に聞くよりも、もっとひどい。

はたして、このスリーサイズの3回同時のことを男から日常的な場面で何十回も聞かれた女は、日本にどれだけいるのだろうか。すでに書いたように、今まで女たちから何十回も高身長のことを聞かれた。それは、日常的な光景でありふれている。セクハラ規定には、スリーサイズよりも女たちの高身長言説のほうこそ書くべきだ。

「高身長の男を求めるのは、女たちが「元気」な子供を生みたいから」などと言う者たちがいる。これが通るならば、スリーサイズも通ることになる。女が安産で子供が元気に育つために、スリーサイズの言説は必要だとなる。

身長と能力には、相関関係はあるのだろうか。平均身長以下や175cm以下の男たちは、高身長の男たちよりも能力がないのか。独活(うど)の大木と言われるのは、なぜなのか。高身長の男たちを平然と望む女たちは、「女としての生物学的な選択眼」も鈍っているのではないのか。女たちは「生物学的な選択眼」で男たちに高身長を求めているのではなく、性的欲望として高身長を求めていると言ったほうが正しいだろう。

結婚・お見合いサイトやお見合いパーティーなどの婚活と言われる中で、高身長の男たちを平然と求める女たちの姿勢を男の文脈で書き換えると、婚活サイトで女たちのスリーサイズが記入され、「何カップ以上の女がいい」「ヒップはこれだけ」「ウエストはこれくらい」というのが、平然とされているようなものだ。こんなことが日常的に平然と起これば、女たちは怒り心頭になるだろう。しかし、身長はスリーサイズよりもどうにもならない制限あるので、それ以上のことを女たちは日常的にしていることになる。

今は三低で三高は古いというが、女たちの高身長欲望は歴然とある。以下の少女漫画を考えると、日本の漫画は海外にまで広がっているので、海外からの批判も出てくるとどうなるのだろうか。以下の少女漫画の高身長欲望からの指摘は、あまりに不十分で無視されてきた。これを明確に指摘すると、無痛化したい心理が前面に出て困惑し、逃げ惑う女たちも大勢いるだろう。

以下の少女漫画のことを考えると、日本の女たちの男たちへの高身長欲望は「民族的」にこびりついて離れないものなので、女たちから男たちへの高身長言説を止めることは無理なことだ。これをセクハラとして、男から女へのセクハラと同じだけ厳しくなると、女たちは耐えられなくなる。

セクハラ訴訟を起こされる女たちが日常的に出て、学者フェミニストたちもセクハラ訴訟恐怖に脅えるようになるだろう。将来的に、日本の女たちは男たちへの高身長言説のセクハラの深刻さを理解した後で、「セクハラ規定が厳しすぎる」と言い出すだろう。

日本では男たちが「セクハラ規定が厳しすぎるから、規定を緩くしろ」と言うのではなく、女たちがそれを言うことで決定的になって、セクハラ規定が緩くなるだろう。女たちの高身長欲望が、それだけ深いのは明らかだからだ。

少女漫画の高身長欲望

『セクハラ神話はもういらない―秋田セクシュアルハラスメント裁判 女たちのチャレンジ』(教育史料出版会)

意見書<3> 一九九八年六月十五日 大阪大学教授 伊藤公雄

 「所有指向は、むしろ女性の方が強いのではないか。例えば男女関係のなかで、男性を所有して放さないというのは、むしろ女性に見られる現象ではないか」という批判もあります。しかし、ここでいう男性の所有指向には、対象をモノとして管理するという意味を含んでいます。女性の所有指向は、しばしば人格的所有であるのに対して、男性は、人格ではなく限りなく客観化したモノとして対象を管理したいという傾向が強いのです。男性性との関連で、この所有指向は、こうした観点から意味付けしておきたいと思います。

伊藤公雄は『男性学入門』(作品社)の105頁にも、これと似たことを書いている。『男性学入門』は、1996年の発行だ。その間、伊藤公雄のこの考えは変わらなかった。伊藤公雄は、「男はモノとして所有/女は人格的所有」という単純な二分法に陥っている。

『男性学入門』の92頁には、「「女は変わった(変わろうとしている)、今度は、男がその意識を変える番だ」」と書いている。これは、テレビ宣伝の「女は変わった、男はどうだ」と似た滑稽なことだ。

女が男を当然にモノとして見て、しかもそのセクハラ発言を繰り返し、さらにはそういう女たちのセクハラ加害の批判があまりに不十分なことがある。変わらない女たちの厳然とした姿がある。それは、女の高身長欲望に基づいている。

女の高身長欲望への批判があまりに不十分なのは、少女漫画論でもはっきりと分かる。藤本由香里『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』は少女漫画論では必ずあげられる文献で、去年に文庫版になって刊行された。

『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』(朝日文庫)24頁(以下の同本の頁数の表記は、全て朝日文庫)

一般に、さまざまな事象に対する人びとの原イメージがどこからきているかというと、小説・映画・TV・雑誌その他のマスメディアだろう。その中で、少女マンガは、もっともその時代の女性の価値観を敏感に映しだしてきた分野である。その中には恋愛の、ほとんどすべてのパターンがあるといっても過言ではない。そうした意味で、女性向けコミックにあらわれた恋愛に関するメッセージの内容と、その時代による変化を探ることは、多くの女性が浸ってきた幻想の体系を探ることになるはずだ。(太字強調は引用者)

藤本由香里は、『岩波 女性学事典』(岩波書店)の「少女マンガ」の項目にも以下の記述をしている。

初期の頃は男性作家がかなりの割合を占めていたが,60年代半ば以降は圧倒的に女性作家が多くなり,現在では書き手の99%が女性,しかも読者と年齢の近い若い女性である.つまり,日本の少女マンガは“女性の,女性による,女性のための”表現メディアなのであり,このように,時代時代を生きる若い女性の価値観や関心のあり方をストレートに反映し,かつ,人気単行本の初刷部数が数十万部を超えるようなマスの市場は世界でも稀だと考えられる.

横森理香『恋愛は少女マンガで教わった』(集英社文庫)の「まえがき」にも、「少女マンガに恋愛・結婚観を教え込まれていた」「私たちはまったく、少女マンガにその脳を侵されている」「少女マンガからすべてを教わってしまった私たちは、実にそのとおりにしか、生きられなくなってしまっている」とある。

『いとしさの王国へ―文学的少女漫画読本』(マーブルトロン)のはじめにある「文学的少女漫画のいざない」にも、「女の子の<生きる>ことの入口にはいつも少女漫画があった」「私たちは少女漫画でできている」とある。

『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』はしがき

 バイト先で少女マンガファンが集まって作った同人誌に寄稿を頼まれ、「少女マンガと髪の長さとの関係について」という一文をものしたのがきっかけだったのだが、「髪の長さ」というたったそれだけのことなのに、主人公とそのライバルとの髪型の対比、時代による変遷、少年マンガとの比較、などをざっと見渡してみただけで、そこにはあきれるほど時代の好み、そして男女の好みの差がはっきりと表れてきたのだ。(太字強調は引用者)

藤本由香里は、このように「はしがき」で髪の長さのことを書き、少年マンガとの比較を考え、男女の好みの差のことを書いている。しかし、『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』の中には、少女漫画の中に当然に繰り返し出てくる高身長描写の記述が一切出てこない。身長描写での少年漫画と少女漫画の比較のことなど、一切書いていないのだ。

『20世紀少女マンガ天国―懐かしの名作から最新ヒットまでこれ一冊で完全網羅!』(エンターブレイン)には、「少女の瞳はこう変わった!」がある。少女漫画の髪の長さ、瞳の描写の指摘などはありながら、少女漫画の高身長描写の批判的な分析はされてこなかった。

藤本由香里は、『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』のはしがきで、「ほぼ一〇年かかって完成させたのが本書である」と言い、「私はこの本を、少女マンガの(そしてそれと比較した青年マンガの)記録である」と言っている。同じはしがきには、「私ほど少女マンガを読んでいる人は、しかも昔から読み続けている人はいないらしい」とある。

少女漫画を読み漁り、ほぼ10年かかって「少女漫画論」を書き、少年漫画や青年漫画との比較の視点も載せているはずの『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』であるのに、少女漫画にありふれている高身長欲望の指摘が全く出てこないのだ。そこには、藤本由香里の女としての無痛化を図りたい心理が根底にあるのは間違いない。日本の代表的な少女漫画論者で、このあまりに不十分な「分析」の有様だ。

『コーラス』2007年12月号(集英社)

松田奈諸子「少女漫画」「最終話 少女漫画家たち」

……少女漫画の中の男のコがナゼかっこよく描かれているか?

"恋をした女のコからの目線"で描かれているからです

現実では それほどかっこよくない男のコかもしれない

でもその男のコを好きになった女のコの目にはどんなアイドルよりかっこよく見えてるハズでしょう?

それが少女漫画表現のリアルです!!(太字強調は原文)

このコマの中で、低身長の男を高身長に変えている描写があり、しかも「それが少女漫画表現のリアルです!!」と太字強調しているのを見ても、少女漫画の高身長欲望の自明さが分かる。

『コーラス』が創刊された時のキャッチコピーは、「少女マンガもオトナになる」だ。しかし、いつまでも変わらない女たちの男たちへの高身長欲望がありふれているのを見ても、本当に少女マンガはオトナになったのだろうか。少女漫画は、高身長の男を自明の前提として描写してきた。川村美香『ハッピーアイスクリーム!』(講談社)などになると、13歳なのに身長が180cmの男などが出てくる。

『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』の170頁には、「「女」といえばまず性的な存在でしかない男性誌」、212頁には、「女性誌とは違って男性誌における異姓(女)とは、完全な欲望の対象」とある。しかし、少女漫画に自明のものとして繰り返し出てくる男への高身長欲望を考えると、藤本由香里の分析はあまりに素朴すぎる。349頁には、「男性誌だけあって、その描き方にどうにも一面的なところがあった」と言っているが、少女漫画の男への高身長欲望のあまりに一面的な描写を無視してよく言えるものだ。

『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』の227頁には、「少女マンガは、すでにみてきたように、新しい、さまざまな形のジェンダーイメージを提供してきた」とあるが、これは藤本由香里の願望であって、現実の少女漫画を分析したものではない。

少女漫画はむしろ、時代の変遷など関係なく、変わらない女たちの男たちへの高身長欲望という性的欲望をいつまでも繰り返し描写してきた。少女漫画に高身長描写がありふれていて、それが「自然」なことを考えると、少女漫画は固定的なジェンダーイメージに凝り固まったのものだ。「少女漫画進化論」などは、妄想にすぎない。

藤本由香里らの少女漫画論の分析にあるように、少女漫画はその時代の女たちの価値観をあらわしたものだ。その少女漫画で高身長欲望が自明の前提としていつまでも出てくるのを考えると、女たちの考えは何も変わっていないし、少女漫画に多様性などないと言える。

中原アヤ『ラブ★コン』(集英社)などをあげて、少女漫画の高身長描写の多様性を指摘する者たちは滑稽だ。そこにあるのは、現実の一般的な恋愛における多数派の女たちへの批判に向かわない程度に、男女の身長差をパロディ化してネタにしているだけだからだ。現実の多数派の女たちの恋愛に影響を与えない範囲で、描写をしているだけだ。『ラブ★コン』をあげて少女漫画の高身長描写の多様性を指摘するのは、女たちに無通化の心理があるからだ。

少年漫画は少女漫画のように、歴然とした男女の身長差の描写を繰り返し「自然」なものとしては描いてこなかった。この点で、固定的なジェンダーではない描写をしてきたのは少年漫画だ。少年漫画よりも少女漫画のほうがジェンダーの多様性があるというのは、少年漫画と少女漫画の高身長描写を比較すると、全くの嘘だということが分かる。

例えば、最近の週刊少年誌を見てみる。2009年3月19日号の『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)の水島新司「ドカベンスーパースターズ編」は、里中とサチ子の結婚式だ。その中に「お色直しです」とういふきだしと共に、里中とサチ子の描写が一面にある。

そこでの里中とサチ子の描写を見ても、少女漫画のように男のほうが身長が当然に高く、それを「自然」なものとしては描写していない。ましてや、少女漫画によくある女が高身長の男を見上げる描写などない。少年漫画では、主人公役の男とヒロイン役の女の身長に、あまり差がない描写がよく見られる。

少女漫画は、その時代の女たちの価値観をあらわしてきた。少女漫画に繰り返し自明のものとして描かれる高身長欲望は、そのまま現実の女たちの男たちへの高身長欲望に直結している。

日本の女たちは少女漫画の高身長言説そのままに、現実の男たちに高身長言説を平然と日常的に繰り返している。これは紛れもなく、セクハラである。しかも、スリーサイズよりもかなりひどいセクハラである。

少女漫画にありふれている高身長描写があり、それが日本の女たちに刷り込まれて逃れられないのだから、日本で女たちが男たちに高身長言説でセクハラを繰り返しているのは「自然」なことだ。

男社会に還元し、男に批判をすり替える

『女は男のそれをなぜセクハラと呼ぶか』124頁

 発言型セクハラは、無意識、あるいは善意で使われることもあり、だからといって、それが相手を傷つけないというわけではない。無意識、善意であるからこそ、男性型文化の根強さを思い知らされることもあるのだ。(太字強調は引用者)

セクハラ問題でもこのように「男性型文化の根強さ」などが言われ、女たち自身による女たち自らのセクハラ女の加害性の指摘が、あまりに不十分なままになっている。

『女は男のそれをなぜセクハラと呼ぶか』には、134頁から136頁までのわずかな頁数だが、「女性上司のセクハラ」の項目がある。

『女は男のそれをなぜセクハラと呼ぶか』135-136頁

男性のなかには、セクハラで訴えることに、抵抗を持つ人も少なからずいるので、実際に被害にあっている人は、より多いことは確かだ。(太字強調は引用者)

被害男性と言って被害を強調するのは、加害者への焦点がぼやけてしまう。被害と書くのではなく、セクハラ加害の女としての、加害者としての女とはっきりと書かないといけない。女は被害者として受け止められることが多いので、加害性をはっきりと主張する必要がある。

『女は男のそれをなぜセクハラと呼ぶか』の136頁には「今後はセクハラを訴え出る男性も増えてくるだろう」と書いてあるが、「男性型文化の根強さ」としての「被害者としての男性」になると、批判する矛先が「男社会」の男たちにすり替わって、女たち自身による女たち自らのセクハラ女の加害性の指摘がいつまで経っても不十分なままになる。

日本で最初のセクシュアル・ハラスメントの裁判は、1989年に福岡で起こった(福岡事件)。今から、20年ほど前のことだ。それだけの年月が経ったが、セクハラ冊子などでよく書かれているのは、以下の「人事院規則10-10」の「セクシュアル・ハラスメントの防止」を元にしているものが多い。

https://labor.tank.jp/wwwsiryou/messages/56.html

3.セクシュアル・ハラスメントになり得る言動

セクシュアル・ハラスメントになり得る言動として、例えば、次のようなものがある。

(1)職場内外で起きやすいもの

(ア)性的な内容の発言関係

ア.性的な関心、欲求に基づくもの

  • スリーサイズを聞くなど身体的特徴を話題にすること。
  • 聞くに耐えない卑猥なな冗談を交わすこと。
  • 体調が悪そうな女性に「今日は生理日か」「もう更年期か」などと言うこと。
  • 性的な経験や性生活について質問すること。
  • 性的なうわさを立てたり、性的なからかいの対象とすること。

イ.性別により差別しようとする意識等に基づくもの

  • 「男のくせに根性がない」「女には仕事を任せられない」「女性は職場の花でありさえすればいい」などと発言すること。
  • 「男の子、女の子」「僕、坊や、お嬢さん」「おじさん、おばさん」などと人格を認めないような呼び方をすること。

(イ)性的な行動関係

ア.性的な関心、欲求に基づくもの

  • ヌードポスター等を職場にはること。
  • 雑誌等の卑猥な写真・記事等をわざと見せたり、読んだりすること。
  • 身体を執拗に眺め回すこと。
  • 食事やデートにしつこく誘うこと。
  • 性的な内容の電話をかけたり、性的な内容の手紙・Eメールを送ること。
  • 身体に不必要に接触すること。
  • 浴室や更衣室等をのぞき見すること。

イ.性別により差別しようとする意識等に基づくもの

女性であるというだけで職場でお茶くみ、掃除、私用等を強要すること。

(ウ)主に職場外においで起こるもの

ア.性的な関心、欲求に基づくもの

性的な関係を強要すること。

イ.性別により差別しようとする意識等に基づくもの

  • カラオケでのデュエットを強要すること。
  • 酒席で、上司の側に座席を指定したり、お酌やチークダンス等を強要すること。

この人事院のセクハラ規定は、加害者の男と被害者の女という前提でできている。「男のくせに根性がない」という記述があるから、被害者としての男の視点も明確にあると素朴に言う者たちがいる。「男のくせに根性がない」というセクハラ規定を何度も言う女たちは、その糾弾する先に「男だから男らしく根性を持て」という「男社会」の男たちが想定できるので、それで安住できる心理がある。

「男のくせに根性がない」のセクハラ規定では、批判の矛先を「男社会」の男たちに還元できて、女たちの加害性を無痛化できる。セクハラ規定で何度も「男のくせに根性がない」だけを取り上げるのは、女たち自身による女たち自らのセクハラ女の加害性から逃れたい女たちの心理が透けて見える。その心理には、「でも、男が悪いと言えるからいいや」という安心感がある。女の無痛化に安住したいフェミニストに回収される典型的なことだ。

さらには、「男のくせに根性がない」をセクハラと批判すると、「女でも根性がある」を肯定的に評価する方向性へとつながる。「男のくせに根性がないと言うのは、男性に対する男性差別」などと言う女たちの心理の底には、「男社会」への糾弾に安住でき、しかも「根性がある女」の肯定評価も得られるというお得さがある。

自らにセクハラ女としての加害性が厳然とあるという事実から逃れたい女たちにとって、「男のくせに根性がない」は、非常に都合のいい「男性に対するセクハラ」になっている。

女たちが言う「男性に対するセクハラ」には、他にも裸踊りがある。「男性上司が男性部下に裸踊りをさせた」などのセクハラ男によるセクハラ男性被害者像を作り上げ、批判の矛先を「男社会」にすりかえて、女たち自身による女たち自らのセクハラ女の加害性の無痛化を図ろうとする。「男社会」に還元して糾弾の矛先を男にすり替えるのは、女の暴力性を指摘する際によく行われることだ。

金子雅臣『壊れる男たち―セクハラはなぜ繰り返されるのか―』(岩波新書)123頁

そう言えば、男性たちによって描き出される女たちがワンパターンなのは、描き出す男性たちの表現がワンパターンだからなのではないだろうか。そう考えた方が起こっている事件の解釈に無理がない。そうなのだ。そうした男性たちが抱いている、自分たちに都合のいいワンパターンな女性像を相手の女性に重ね合わせようとしたり、そこに身勝手な望みを押しつけたりすることによって起こる事件こそが、セクハラ事件なのだ。

セクハラ問題では、このようなことがよく言われる。ここで金子雅臣が言っていることだけを考えれば、確かにその通りだろう。問題になるのは、この指摘で終われば、単なる一方的な見解にすぎないということだ。

金子雅臣のような者たちに決定的に欠けているのは、「女性たちによって描き出される男たちがワンパターンなのは、描き出す女性たちの表現がワンパターンだからなのではないだろうか」という視点だ。そして、女たちがワンパターンで描く少女漫画の高身長の男性像に合わせて、女たちはスリーサイズよりもひどい高身長言説のセクハラを男たちに日常的に繰り返している。

藤本由香里らが指摘するように、少女漫画は女たちの価値観や考えをあらわしてきたものだ。そこにある高身長描写と、現実の女たちの高身長言説のセクハラが結び付いていて切り離せないのだから、男性型文化と言って男に批判をすり替えることはできない。少女漫画を考えれば、女たち自身による女たち自らのセクハラ女の加害性がくっきりと浮かび上がる。女たち自らの高身長言説のセクハラと、少女漫画は切り離せない。

「する男/しない男」「する女/しない女」に完全に分けられない

『壊れる男たち―セクハラはなぜ繰り返されるのか―』の「はじめに」には、「セクハラを"する男"と"しない男"の違いも明らかになってくる」として、第4章では「"する男"と"しない男"について論じてみたい」と書いている。

金子雅臣は「はじめに」で、セクハラを「する男」と「しない男」の違いを明らかに認識しているので、金子雅臣はセクハラを「する男」と「しない男」に明確に分けられると思っているのだろう。しかし、セクハラを「する男」と「しない男」は、明確に完全に分けることはできないだろう。

上野千鶴子 信田さよ子『結婚帝国 女の岐れ道』(講談社)161-162頁

上野 DVの分析をやっていけばやっていくほど、普通の「男らしさ」や「愛」の概念の中に、支配とか所有の観念が含まれていて、「殴る男と殴らない男がほとんど地続きで差がない」という結論になりそうですね。  じゃあ、すべての男を去勢するほかDVは防げないのか。軍事力を持っているアメリカに、武器を使わせないようにするのは不可能だ、というみたいですね。「紳士的な男」には、「紳士的な軍隊」と同じくらいの背理がある。それは、男性性の中に支配と所有が埋めこまれているからでしょうか。

信田 ほんとにそうなんだけど、その説明だけでは、ネバネバしたものが落ちてしまうような気がする。

ここで上野千鶴子が「殴る男と殴らない男がほとんど地続きで差がない」と言っているが、これはそうではないだろうか。この問題で言えば、「オレだけは違う」「オレだけは女性の味方」という一見すると「人権」を考えてきた男たちが、実は問題をこじらせてきたと言える。

さらに言えば、江原由美子・金井淑子編『フェミニズムの名著50』(平凡社)の森田和也の指摘をあげることもできる。森田和也は、キャサリン・A・マッキノン『フェミニズムと表現の自由』の項目の中で、「ジェンダーの不平等という文脈においては、レイプと普通のセックスとは連続している。両者の間に万里の長城は存在しない」と言っている。

私自身としては、この森田和也の言うことをさらに進めて、「連続強姦魔と普通の男とは連続している」という指摘も可能ではないのかと思っている。女たちの素朴な無痛化のように、男たちの素朴な無痛化を図ることはしない。

問題なのは、この指摘が一方的に終わっているということだ。「加害女たちと普通の女たちは連続している」という観点が、全くないことだ。女たちは、「ワタシだけは違う」と言うことはできない

連続するセクハラ女の性

日本の代表的な少女漫画論者の藤本由香里の代表作である『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』には、少年漫画との比較、青年漫画との比較の観点がありながら、少女漫画にありふれている高身長描写の批判的分析が一切ないことはすでに述べた。そして、それは藤本由香里の女としての無痛化の心理が根底にあることも述べた。

藤本由香里の少女漫画論でも、少女漫画にこれだけありふれている高身長描写の批判的分析が一切ないのは、日本の女たちが無意識に、そして当然に、高身長欲望を持っていることが「自然」なことだからだ。

それを批判することなど考えもつかないから、日本の代表的な少女漫画論の文献でさえも、全く少女漫画の高身長描写を批判できないし、その高身長描写と日本の女たちの現実の高身長言説のセクハラが深く結びついていることを分析することもできない。女が真剣にこの分析をすると、女としての痛みに耐えられなくなるのだろう。

「女は変わった、男は変わらない」というのは、女たちの高身長言説を考えると間違いだ。女たちの変化と思えるのは、したい選択肢の中から選んでいるだけだ。女たちの変化は、積極的に肯定したい変化の中から選んでいるだけで、自らの無痛化と共存できる変化の枠組みの中にいるにすぎない。男たちに対して、男たちの無痛化を暴く否定的な変化を求めるのなら、女たちも、自らの無痛化を暴かれる否定的な変化をしないといけない。それで、「女も男も変わった」となる。

「高身長言説のセクハラをする加害女としない女には境界線はなく程度の差があるだけである」「普通の女と高身長言説のセクハラ加害女とは区別できない」というのは、既述の『結婚帝国 女の岐れ道』の上野千鶴子の「殴る男と殴らない男がほとんど地続きで差がない」よりは、明らかに正しい。

既述の少女漫画論の書籍や少女漫画から分析して考えると、女の高身長欲望・言説は、あらゆる女たちの間で連綿と連続し、地続きであり、似通っていて、通底して根底で支え合っている。自分だけは違うとは言えない。私は「清い」こちら側で、あの人たちは「汚い」あちら側という境界線は引けない。普通の女たちと、セクハラ加害女の性は連続している。そこに、絶対的な壁は存在しない。程度の差があるだけである。

女たちは、「ワタシだけは違う」ということはできない。その「ワタシだけは違う」という女たちの集合体の心理が、少女漫画での高身長描写への批判を止めさせ、セクハラ女の加害性を男の加害性にすり替えることが行われてきた。あらゆる女たちは、セクハラ加害女と連続する「連続するセクハラ女の性」を持っている。少女漫画で構築されてきた女たちが、現実の男たちに向ける高身長言説のセクハラは、今までも散々に繰り返され、これからも繰り返される。

「日本の女性よりも、欧米の女たちの男たちへのセクハラのほうがひどい」などといって、批判の矛先を「欧米の女たち」なるものへ向けるのは、「日本の男はセクハラなんてしない。セクハラは欧米用語で欧米のもの」と言ってきた男たちと同じだ。そこにあるのは、自らの無痛化に他ならない。この最後の悪あがきが日本の女たちからかまびすしく言われるようになった時は、日本の女たちの無痛化が暴かれて、耐えられない女たちが続出した時だろう。

アンドレア・ドウォーキン『ポルノグラフィ―女を所有する男たち』の視点で言うと、「セクハラ加害女」は少女漫画が作る。そして、伊藤公雄が言ったのとは逆に、女たちは男たちを身長でモノ化して所有することを日常的に「自然」なこととして繰り返し行っている。日本の女たちは、男たちへの高身長欲望を止めることはできない。その「社会」は、少女漫画が作る。その「歴史」は、少女漫画が作る。

女たちの高身長言説とセクハラ加害女の関係性を、少女漫画と合わせて批判的に分析してこれなかったフェミニストたちの責任は非常に大きい。フェミニズムは「公平中立」と言われるそのことは、実は男たちの視点ではないのかと言ってきた。日常の中に潜む何気ないことの中にも、男の政治性を問題にしてきたのがフェミニズムだ。

セクハラ加害女と少女漫画の分析をしてみると、少女漫画論の「公平中立」と思われているその分析手法は、実は女にとって都合のいいもので、女たちの無痛化を根底から支えるものではないのかと疑われるようになった。何しろ、日本の代表的な少女漫画の文献である『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』に、全く少女漫画の高身長描写の批判的指摘がないのだから。一行も一文字もないのである。

これが少女漫画論の「第一級」の文献なのだから、どれだけ、現状の少女漫画の「分析」がひどいのかが分かる。どれだけ、少年漫画と少女漫画の比較が真剣にされていないのかが分かる。どれだけ、女たちの無痛化に手を貸している勢力が大勢いるのかが分かる。どれだけ、女たちの無痛化を問題にできない勢力が多数派なのかが分かる。

女たちの無通化を無批判にして、女たちの無通化を延命してきたことが分かる。それは、その無通化が暴かれると女としての自らの痛みに気付かされ、それに耐えられなくなり、無痛化の状態に安住できなくなるからだ。男たちの無痛化を指摘してきた女たちは、自らの女としての無痛化からは目を逸らしてきた。それは、少女漫画の高身長欲望・言説と、セクハラ加害女との関係性の無批判でも明らかである。

女が女自らのセクハラ加害の暴力を指摘して、女が女自らのセクハラ加害の暴力を認識することから始まる。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2009年3月掲載


参考文献一覧

  • アンドレア・ドウォーキン『ポルノグラフィ―女を所有する男たち』寺沢みづほ訳(青土社)
  • 伊藤公雄『男性学入門』(作品社)
  • 『いとしさの王国へ―文学的少女漫画読本』(マーブルトロン)
  • 『岩波 女性学事典』(岩波書店)
  • 上野千鶴子 信田さよ子『結婚帝国 女の岐れ道』(講談社)
  • 江原由美子・金井淑子編『フェミニズムの名著50』(平凡社)
  • 金子雅臣『壊れる男たち―セクハラはなぜ繰り返されるのか―』(岩波新書)
  • 川村美香『ハッピーアイスクリーム!』(講談社)
  • ケネス・J. ガーゲン『あなたへの社会構成主義』東村知子訳(ナカニシヤ出版)
  • 『コーラス』2007年12月号(集英社)
  • 『週刊少年チャンピオン』2009年3月19日号(秋田書店)
  • 『セクハラ神話はもういらない―秋田セクシュアルハラスメント裁判 女たちのチャレンジ』(教育史料出版会)
  • 田中萌子『知事のセクハラ私の闘い』(角川書店)
  • 中原アヤ『ラブ★コン』(集英社)
  • 『20世紀少女マンガ天国―懐かしの名作から最新ヒットまでこれ一冊で完全網羅!』(エンターブレイン)
  • 藤本由香里『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』(朝日文庫)
  • 森岡正博『無痛文明論』(トランスビュー)
  • 山田秀雄『女は男のそれをなぜセクハラと呼ぶか』(角川書店)
  • 横森理香『恋愛は少女マンガで教わった』(集英社文庫)

この論考のコメントへの応答は、以下のリンクにあります。

「男社会」に回収して無痛化を図る対抗言説のために


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