「男社会」に回収して無痛化を図る

女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性のはてなブックマークのコメントへの応答です。引用コメントは、全て以下のはてなブックマークのものです。

はてなブックマーク - 女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性|反省の女性学

dame_kana comment 呼ばれたので読んだ。私、身長170近いんですけど「女は小柄なほうが良い」って男性の好みの傾向を痛感して育ちました。身長に限って言えば、男女相互的な差別意識があるんじゃないかと。

「女は小柄なほうが良い」という男性の好みの傾向を痛感して育った女性がいることと、それが「身長に限って言えば、男女相互的な差別意識があるんじゃないかと」ということを繋げることが、女たちの無痛化になります。

少女漫画は、その時代の現実の女たちを反映してきました。この指摘は、藤本由香里『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』などにもあります。『私の居場所はどこにあるの?』は少女漫画論で必ずと言っていいほどにあげられる文献なので、「女たちの価値観と少女漫画を繋げるな。少女漫画は虚構の漫画でしかない」という人は、藤本由香里らに批判の矛先を向けるべきです。

その少女漫画には、男の高身長描写が「自然」に当たり前に繰り返し出てきます。そうなると、現実の女たちは「自然」に当たり前に、現実の男たちに高身長欲望を向けることになります。実際に高身長の身として、女たちから何十回も高身長のことを言われてきました。

少年漫画では、少女漫画のように高身長描写を「自然」なものとはしていませんし、そんなに身長差がない描写もよく見られます。このことから考えても、「身長に限って言えば、男女相互的な差別意識があるんじゃないかと」とは言えません。

「身長に限って言えば、男女相互的な差別意識があるんじゃないかと」などと言われるのは、藤本由香里らが少女漫画の男の高身長描写の批判的指摘をしてこれなかったことと、少年漫画と少女漫画の身長描写の比較で、少女漫画の固定的な高身長描写を批判してこれなかったによるものも大きいと思います。

「個人的な経験を全体の傾向に適合してはならない」ということは、例えば、男の育児・家事でも言えます。「オレは育児も家事もしている。だから、日本の男たちが育児や家事をしないということはない」というのは、個人的な経験を全体の傾向に適合しています。国際的な調査結果を無視したものです。

「女は小柄なほうが良い」という男性の好みの傾向を痛感して育ったある女性がいることで、男女の身長言説を一緒くたにしてしまうのは、「オレは育児家事もしている。だから日本の男たちは育児家事をしていないと言うな」と同じような全体の傾向の無痛化が感じられます。

男女の身長言説は、少年漫画と少女漫画での明らかな違いがあることからも別のものです。女たちが男の身長を選択して高身長の欄を選択する光景と同程度に、男たちが女の身長をある傾向で選択するのは、現実を反映している漫画で考えてもありえないです。

washburn1975 男女論, 漫画, グラップラー刃牙 骨延長手術というとジャック・ハンマーしか思いつかない。というか、まずはこの人自身が身長のコンプレックスから解放されることを考えたほうがいいと思われ。

身長のコンプレックスは、ないですよ。女たちから高身長のことを何度も言われてきて、その高身長は肯定的であると社会的に構成されていますから。強調しておきますが、自分は高身長ですから。「低身長だから劣等感があってこんなことを言っているのだろう」という人には、自明の前提が崩れまくるのでしょうね。

女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性での批判の矛先は主にフェミニストであって、「女性に「ちゃん」と言うのはセクハラ」などと言うフェミニストたちが、女たちの高身長言説というセクハラには無自覚だからです。

今までフェミニストたちの文献を読んできて、女のセクハラ加害にあまりに無自覚、無批判で、男のセクハラ加害ばかりを批判してきているので、そういうフェミニストたちは身長のセクハラで自らのセクハラ加害性を突きつけられればいいですね。

これだけ女から男への高身長欲望が蔓延している日本で、学者フェミニストたちも、その女から男への高身長欲望を「自然」視して内面化して、今まで男たちに高身長言説をしてきた経験が何度もあるはずです。そういう学者フェミニストたちは、自らのセクハラ加害を突きつけられて困惑して、怯えればいいですね。

「セクハラの99%は男」とか言って、男のセクハラ加害ばかりを言ってきた学者フェミニストたちが、自らのセクハラ加害女としての無痛化が暴かれ怯えるのは、「ざまあみろ」と思うだけです。今までのフェミニズムの理論で、学者フェミニストたちのセクハラ女の加害性を暴くのだから、学者フェミニストたちも本望でしょう。

darkglobe gender, comic 「背が高いねー」って言葉ってさ、他に何も言うことが思いつかないときに便利なんだよね。。。まさかそれで傷つくとは思わないというのもあるし。実際には身長なんて気にしない人の方が多そうだけどなぁ。

「背が高いねー」と言われて、高身長の身としては傷つくことはありません。高身長を肯定するように社会的に構成されているからです。問題なのは、高身長の身として考えた場合に、低身長の男たちは背が低いということは、社会的に否定されるということです。

これは少女漫画を見れば、明らかにそうす。実際には身長なんて気にしないことはないです。個人的にはいても、全体の傾向としては、例えば結婚する時には、「結婚するなら高身長の男がいい」となっています。結婚紹介所などで男たちの身長が全く分からないで、その結婚紹介所などを利用する女たちがどれだけいるでしょうか。他の結婚紹介所などに移るでしょう。

ikazoike まあ不快なのはわかるしみりゃわかるからきかないけどありとあらゆるものがセクハラとなりそうな悪寒 2009/03/14

高身長を肯定する社会で、個人的には、高身長のことを聞かれても基本的に不快にはならないです。不快になるのは、「ちゃん」がセクハラとまで言うフェミニストの女たちが、女が男を身長でモノ化することに関して、セクハラ女としての加害性という認識があまりに不十分だからです。

女に「ちゃん」というのさえもセクハラと言われる今の日本では、すでに、あらゆるものがセクハラとなりそうな悪寒になってませんか。

lefthanded 恋愛, ジェンダー 正論だから怖いな。女の加害性を指摘するのは男にとって逆に脅威とならんか。それはそれとして異性を外観で判断するのを僕は悪だと思わない。

異性を外観で判断するのを悪だと思わないのは同じです。女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性での批判の矛先は特に、男たちにセクハラ加害を散々言ってきながら、自らの女としてのセクハラ加害を無痛化してきたフェミニストの女たちに向けています。

特に、「セクハラの99%は男」と言うような学者フェミニストたちに向けています。「セクハラの99%は男」というのは、もはや捏造です。

lisagasu 男は背が高く女は小柄が望ましくそれが当然と考える人は男女ともいるよね。異性としての好み以上に見栄えとかで。叩き潰したいやな認識の一つだ

少年漫画と少女漫画で、明らかな身長描写の違いがあります。その描写の違いを考えると、女たちのほうが高身長の男を求め、女たちのほうが女は小柄が望ましいと考えていると見るのが妥当だと思います。

少年漫画での主人公の男とヒロイン役の女の身長差は、少女漫画ほどに差がない描写がよく見られます。身長に関して言えば、女たちの固定的な身長観があまりに無批判にされてきました。男のセクハラ加害は、あらゆる面で指摘されてきたのに。

WinterMute ジェンダー, 考察 痛みを訴える際に相手の痛みを否定する必要はなかんべよ/否定されてきたとしても、さ

女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性に書いてあることは、「痛みを訴える際に相手の痛みを否定」してきた典型的なことを書いています。男のセクハラ加害を訴えてきながら、女のセクハラ加害を無痛化してきたことです。「痛みを訴える際に相手の痛みを否定」することを批判するのなら、藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』に、少女漫画の女から男への高身長描写の「自然」視の批判が全くないことを批判するべきではないですか。

『私の居場所はどこにあるの?』は、少女漫画の代表的な文献でありながら、少女漫画の女から男への高身長描写の「自然」視を批判できていないという大きな欠点があるので、女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性に書きました。

私にとって否定されてきた痛みは、こういう藤本由香里らの少女漫画論が「優れた分析」として通って、セクハラ主張をするフェミニストたちが、あまりに女たちの高身長言説に無自覚なことです。

フェミニズムは「公平中立」というのは男の視点だと批判してきたのに、自分らが分析しだすと、その「公平中立」さが女としての無痛化を図るものに転化したわけです。こんなフェミニストたちは批判されるのは当然で、特に学者フェミニストたちは権威なので批判するのは当然です。

uumin3 読み物, 興味深い "非モテ"の視線と類似のものを感じた

はてなの非モテ論議は、正直に言ってよく分かりません。非モテは、「男らしさが悪い」などと言っているのでしょうか。これは、フェミニストたちが自らに回収しようとするし、男性学がよく言っているので、特に注意する必要があると思います。

フェミニストたちを批判するのなら、フェミニズムの議論を踏襲しながら、その内部の理論に入り込んで、フェミニストたちに反省を求める方向性がいいと思います。その方向性は、フェミニストたちに回収されないで、単なる「男社会」批判にならないものです。

女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性の方向性では、少女漫画の高身長描写の「自然」さと、少年漫画の身長描写を比較すると、「男社会」が悪いと言えなくなります。男女の自殺率格差問題でも、「男らしさが原因で男女の自殺格差は拡大した」とは言えません。このように、「男社会」に回収しようとするフェミニストたちへの対抗言説に、非モテ論議がどれだけ役に立つかは分かりません。

他には、男性差別論議にも懐疑的です。男性差別論議も、結局は、男らしさを批判するという短絡的な方向性になって、男性学が言っていることと何が違うのか、フェミニストたちに回収されるものになっていないかと思うからです。

keijis 男女 かつてのフェミニズム運動も、声を上げた女性に対しての反応は↑みたいなもんだった。だからこそこの不快感という気持ちは否定できない、重要なのは結局同じように思う人をの声を集めることか。

女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性は、単に「女が悪い」と言っているのではないのに批判的な反応になるのは、最後まで読んでないのでしょうか。13000字くらいあるので。

「「する男/しない男」「する女/しない女」に完全に分けられない」には、「殴る男と殴らない男がほとんど地続きで差がない」にそうではないかと言ってるし、森田和也の言ったことよりさらに、「連続強姦魔と普通の男とは連続している」とまで言っています。このことから、女たちが自らの無痛化を図るように、男たちの無痛化を図る気はないということは、はっきりと分かると思うのですが。

男たちの無痛化はいつまでも暴くが、女たちの無痛化を暴くことは許さないという図式が目に見えるようです。しかし、いつまでも女たちの無痛化を暴かないで男たちの無痛化ばかりを暴いていては、女たちの無痛化が暴かれる時には、混乱して困惑して怯え出して、耐えられなくなるのではないでしょうか。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2009年3月掲載


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