女子サッカーの多様性
なでしこ報道で露呈した“ニッポン”の未熟な女性観:日経ビジネスオンライン
河合薫のこの女子サッカーの記事は、他の国の女子サッカーの状況を理解せずに書いている。
男と女は、同じでない。生き方にも、考え方にも違いがあって当然である。だが、「自分のやりたいこと」が、性差によって阻まれることは、あってはならないと思う。
河合薫はこう書いているが、女子サッカーで、アメリカの女子しか出さないところに、他の国の女子サッカーのありようを無視している。「河合薫の新・リーダー術」と名乗っているが、この記事は、一昔前の女性論を読んでいるようで何が新しいか分からないし、アメリカしか比較対象に出さないところにも、アメリカ偏重の古臭い米国依存主義が見えて、それこそ時代遅れだ。
女子サッカーの女性らしさのことで言えば、アメリカを出すよりもっと適当な国がある。今回、三連覇を狙っていたドイツだ。ドイツは首相も女性だが、そのドイツの女子サッカーの女性らしさはどうなのか。ドイツを見ても分かるのが、女は男と同じ方向性を目指すのが男女平等であるということへの懐疑だ。
その象徴的なことが、ドイツの女子サッカー選手が、米誌『プレイボーイ』にヌード写真を掲載したことだ。記事にあるネイルのことを聞くとか、聞かないとかのレベルではない。開催国の女子サッカー選手が自国を盛り上げるために、ヌード写真を掲載して、しかもその国の首相は女性である。河合薫は、女子サッカーの女性性で、このドイツの例などを出さないのは、女子サッカーのことを言いながら女子サッカーのことを考えもせず、女性のことを言いながら女性のことも語っていない。
ドイツ以外にも、スペインの女子サッカー選手もヌード写真を出しているし、ヌード写真を出している女子スポーツ選手の国は他にもある。河合薫の記事にもあるダイバーシティーの本来の意味は、そういうヌード写真を女性スポーツ選手が出すことにも寛容である社会のことだ。河合薫は、エロチカのことなどをどう考えているのか。
『プレイボーイ』のヌードモデルになったドイツのクリスティーナ・ゲサトゥは、「私たちは普通の女の子」と言ったと報じられている。「自分らしさ」が出せないのは問題だが、河合薫のようなドイツの女子サッカー選手のヌード写真の例などを無視する者たちは、道徳的排他主義の傾向の者たちと結びつきやすい。日本の女子スポーツ選手が、ヌード写真を出せないところにある「はしたなさ」の問題などを浅薄な男女平等論で覆い隠してきた。
日本のkawaiiと言われる文化、エロチカを単に女性差別だと言う短絡的な批判や、フェミニズムは男と同じ路線で拮抗するための思想なのか。そういうことなどを考えると、河合薫の記事は、多様性ある社会を制限する反動の記事とも受け取れるし、道徳的排他主義の者たちと、性倫理を訴えるフェミニストが同調しやすいことなども浮かんでくる。
ダイバーシティを本当に目指す社会は、女性のことを考えればいいというのは既存思考にすぎない。ダイバーシティの社会は、障害者をもっと積極的に雇用して、健常者の上司に障害者がなるということも目指す社会のことだ。その時には、普段は女性の人権を言っている健常者の女性から、「障害者のくせに生意気だ」という反動も根強く残るだろう。障害者の現状は、女は3歩下がってどころではなく、障害者は健常者より300歩下がっていろくらいの隔たりがある。
多様性ある社会は、女性のエロチカも当たり前に認められた先にあるものだ。アメリカの女子サッカー(しかも、そのアメリカ女子の例も不十分だが)しか例に出さない米国偏重主義の河合薫は、多様性ある社会など特に求めていない心理が透けて見える。
男の場合にはそんなことが言われるのかなどと言って、言語による暴力的な規定を問題にしている河合薫が、草食系男子という言説にはニヤニヤ笑って肯定していることはないだろうが…草食系男子という一方的な規定は暴力であって、セクハラでもある。草食系男子言説の無自覚な暴力的規定は溢れかえっていて、セクハラを主張する女性が無自覚に言っているのだから驚いていしまう。
河合薫は、男子と女子のサッカーが「同じサッカー」と言っているので、そもそも競技人口が違いすぎること、イスラム圏の女子も含めて、女子サッカーが普及していない国の現状の厳しさなども知らないで書いたのだろう。アルゼンチンの女子があまりに弱すぎることなどを考えても、「同じサッカー」ではない。
「同じサッカー」ではないという出発点でないと、男女差があることが分からないで、改善することもできない。河合薫が、各国の女子サッカーのレベルを上げて、女子サッカーの将来まで見据えた視点がないことが分かる。
反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。
2011年7月掲載