女性差別報道のパラドックス
最近の一面的な女性差別報道を見ると、戦前から何も変わっていないどころか、むしろ悪化しているのではないのかという例ばかりだ。女性が差別されているという時のその「女性」とは、何なのか。多数派(支配側)の女性への「差別」問題に及んだ時に声高に主張しだすのは、戦前から変わっていない。戦前から続く障害者を無視して多数派の女性の権利を最優先してきたことなどが典型だが、今も何も変わっていない。そのような例がかなり出てきて、そのことの批判が稀なので、ここでまとめることにした。
インドのレイプ報道
まず、最初に、インド女性へのレイプ報道。この件でインドで抗議運動が起こっているが、インドの実態を考えると強烈な欺瞞が隠されている。まず、インドで抗議が起こったのは、被害者が不可触民(アンタッチャブル、ダリット)ではなかったからだ。不可触民が被害者であれば、警察も全く動かない。首相が女子学生の遺体を手厚く迎えたり、国民会議派の総裁、州政府の内相などが出迎えたりするところに、不可触民への対応とは正反対の姿勢がうかがえる。
中産階級の女性が自らがレイプされる恐怖に慄いて、「インドの女性への」女性差別をやめろなどと言っている。インドの女性へのレイプをそんなに問題にするのならば、今まで延々と不可触民の女性が強姦殺人されてきたことを全く無視してきた支配カーストの姿勢は、一体全体、何だというのか。それを言うと、上位カーストの女性が不可触民に徹底的に醜悪な差別を延々と繰り返してきたことへの痛烈な反省をしないといけないから、隠蔽してきた。上位カーストの女性が「インドの女性への」差別を考えてきたなど、全くのデタラメだ。
不可触民は、インドで何千年も家畜以下の醜悪な差別を受けてきた人たちた。牛舎の掃除をしていた15歳の不可触民の少女が余りに喉が渇いたので、牛用の水がめの水を飲んだら、牛様の水を汚すとは何事だと張り倒されて、結局、殺されてしまった。車で不可触民の農夫を轢き殺しても、不可触民が死のうがどうってことはないと放置されるのが当然。酷暑のインドでどれだけ喉が渇いても、一滴の水を飲むことさえ許されない不可触民。上位カーストヒンズーが気紛れに水を与えてくれるのを井戸で遠巻きに待ち続け、それに耐えられずに泥水を飲んで疾病に罹るしかない不可触民。そんな不可触民が何億といて何千年も存在してきたのがインド。
こういうことは、山際素男が書いている。生きていくために最も重要な水さえも(一時的にではなく)一切飲ませないことほどの人権侵害が、他にあるのか。あのアンベードカル(不可触民出身でインド憲法の父)でさえも、ロンドン大学とコロンビア大学の両博士号、ボン大学留学後にインドで弁護士活動をしている時でも、不可触民のために食事すら提供されなかった。コロンビア大学で博士号を取っても、インドの役所で水さえ手に入らなかったアンベードカル。召使にも書類を直接渡すのを不浄と扱われ、不可触民であるために棒を持って押しかけられた。その後、アンベードカルはボンベイ政府の委員会などに選ばれても、小学校の教室に入るのも拒否され、馬車に乗るのも拒否された。アンベードカルが憲法草案を書いたのは、アンベードカル以上にインドで適任者がいなかったからだと言われている。それほどのインドで天才的な人物でも、徹底的に差別された。
ダナンジャイ・キール、山際素男訳『アンベードカルの生涯』(光文社新書)に、アンベードカルがガンジーに「私には祖国がありません」と言っている場面がある。そして、アンベードカルが以下のことをガンジーに言っている。
『アンベードカルの生涯』(光文社新書)135頁
「あなたは、私に祖国があるとおっしゃいましたが、くり返していいます。私にはありません。犬や猫のようにあしらわれ、水も飲めないようなところを、どうして祖国だとか、自分の宗教だとかいえるでしょう」
不可触民ではなく、単にカーストヒンズーであるというだけで、アーベンドカルよりも遥かに知性がない者たちに、アンベードカルは家畜以下に扱われてきた。『アンベードカルの生涯』にも記録されているように、アンベードカルはインド人の同一国民感情や国民感覚を大切に思っていた。アンベードカルは、共産党の欺瞞も見抜いて何度も共産党を批判している。そんなアンベードカルをカーストヒンズーは徹底的に差別してきた。
インドの女性差別でインド全体の女性が差別されているとばかり報道されているが、それはどういう報道効果を生むのか。インドで最も重要なのは支配指導層のブラーミン(バラモン)カーストであり、インドで最も重要な女性はブラーミンの女性だ。インドの女性差別を報道すると、結局、支配層のブラーミンなどの女性への差別なるものへと収斂していき、カースト制度における醜悪な差別を隠蔽することになるし、実際にブラーミンはそれを延々としてきた。
飲料水さえまともに飲めない家畜以下の不可触民を放置しておきながら、インドの女性は差別されていると声高に叫ぶブラーミン女性の欺瞞は甚だしい。ブラーミンは、カースト制度のために毎日を生きるか死ぬかで悶絶することはない。「不可触民の」女性への差別を言うのならば、上位支配カーストによるカースト差別を徹底的に批判して言うべきだ。結局、不可触民が都合よくカーストヒンズーに扱われ、カースト制度より女性差別を言ってきた今までと同じ主張では、ブラーミン女性などがニンマリと醜悪な笑みを浮かべることになる。
上位カーストヒンズーが、優秀な不可触民が社会に出てくるのを猛烈に妬み、嫉妬で渦巻き、不当に追い落として虐待して殺してきたことも無視して、上位カーストヒンズーの女性がインドの女性問題を語るなど、何ともふざけた話だ。南アフリカのアパルトヘイト当時に「ここに差別はないの」と言っていた白人女性がいたが、上位層の女性が自らの差別に無自覚なのは、いつの時代も同じだ。指導層の上位カーストヒンズーの女性は、カースト制度で不可触民低位カーストの人たちにどれだけの惨たらしい仕打ちをしてきたかを大いに反省してから不可触民の女性問題を語るべきだが、そんなことはどうでもいいからと反省するどころか正当化さえしてきたのがブラーミンだ。
そのブラーミン支配にも憤った中産階級のインド女性が立ち上がって差別をやめろと言っているが、カーストヒンズーの女性がカースト制度で家畜以下の不可触民の存在を死守しながら、差別を止めろというなど、何の冗談だろうか。結局、自分への差別は許せないが、不可触民が残忍に殺されようが知ったことではないと言っている。そんな姿勢でインド女性への差別を止めろと言い、そういう自分をインド愛国の国士気取りをしているのだから、壮大な滑稽な物語を見ているようだ。
本当にインドの人権問題を考えるのならば、カースト制度の壮絶な差別を考え、アンベードカルが仏教に改宗せざるを得なかったように、ヒンズー教がある限りは改善されないのではないのか。ガンジーは不可触民制だけを廃止し、不可触民を第5位の地位に引き上げようとしたカースト制度の死守派のために、カーストヒンズーから支持された。そのガンジーの言ったカースト制度の死守は、現在のインドで不可触民を指定カーストにすることで、見事に生き残っている。インドで女性差別で抗議が起こったのは、カースト制度を死守したい層が、カースト制度で恩恵を受ける女性にも危害が加わる危険性で抗議しているにすぎない。その女性差別を抗議しているカーストヒンズーが、インドの差別を永続させている反省など何もないことを、なぜ、インドの女性差別報道では隠蔽され、無視されているのか。
カーストヒンズーの女性差別問題は、何千年もの不可触民への家畜以下の劣悪な差別よりも遥かに優先される。インドの根底にあるのはカースト制度による醜悪な差別であって、それよりもカーストヒンズーへの「差別」問題を優先するなどバックラッシュに過ぎない。しかし、このバックラッシュを普段、人権を尊重しろなどと言う者が「インドの女性差別は許せない」などと言っているのだから、化けの皮が剥がれたとはこのことか。その差別なるものは、実は、不可触民のことなど何も考えていないのに。インドの女性差別報道が、完全に多数派の暴力の手中の中にある何よりの証拠だ。
ここで問題になるのが、日本でのインドレイプ報道だ。日本でインドの女性差別を言っている指導層の女性たちにも、非常に注意が必要だ。その女性たちは、インドの女性は差別されていると言っているが、支配カーストの女性による醜悪な差別問題には言及していないものばかりだ。それを言うと、日本での健常者女性による歴史的・現実的な障害者への差別問題などに飛び火しかねないという無意識の防衛でも働いているのだろうか。
女性器切除と女性差別
(参考:女性器切除にある人種差別とイスラム蔑視)
多数派の女性による欺瞞は、女性差別問題で延々と隠蔽され、今もそれは強固に実行中だ。そもそもが、女性差別が許せないという前提が正しいかどうか。この自明の前提も、実は相当に怪しいものだ。女性差別を声高に主張してきたのは白人の指導層の女たちで、そのため多数派の女たちに批判が向かわないように操作されてきた。それを各国の多数派の女たちが猿真似して、様々な問題を引き起こしてきた。女性差別も、近代思想の限界を持つものにすぎない。その認識がないから、多数派の女たちの暴力の正義のために、女性差別が盛んに使われるという現象があらゆるところで起きている。
イスラム圏の女性器切除(FGM)の女性差別は許せないという声が上がった。しかし、ここにも非常に大きな問題がある。そもそもイスラム圏の女性器切除を大問題にして主張してきたのは、白人の指導層の女たちだ。その女たちが何を言ったのか。当地の女性を野蛮視し、イスラム教を蔑視し、土人国家扱いした上で、女性差別をやめろなどと言い出した。そこにあるのは、レイシズムとイスラム教蔑視である。女性器切除のことを書いていないコーランを批判する意味が、一体どこにあるのか。イスラム教が女性器切除をしろとは言っていないのは、イスラム法学者も言っている。その白人の女たちは、女性への差別そのものについても大して考えていなかった。そこに住んでいる当の女性たちは、その国の宗教と文化に寄り添って生きてきた女性であって、それらがあってこその女性であったことをすっかりと無視していた。
イスラム圏の男尊女卑像の多くは、英語圏の白人層のメディアが流してきたこと。普段、報道を疑えなどと言っておきながら、イスラム圏の女性差別になると途端に思考停止する。英語圏の大手通信社が流すイスラム圏の捻じ曲がった報道をそのまま垂れ流す日本のメディアも非常に問題があるが、それをそのまま鵜呑みにする者にメディアーリテラシーなどはない。
女子柔道の体罰問題
女性柔道の体罰問題で、女性の監督を増やせばいいと盛んに言われている。ここも、ある重要なことがすっかり抜けている。女性が監督になれば、体罰をしないのか。女性は暴力を振るわないのか。男の暴力で特に盛んに批判されてきたのは軍隊だが、女性兵士は何をしてきたのか。アブグレイブ虐待での女性兵士の惨たらしい仕打ちは、どうだったか。女性兵士は虐待しただけではなく、捕虜の男性を強姦した。こんなことは、別に珍しいことでもない。ソ連の女性兵士たちが暴れに暴れまわって、市民の男性を強姦した例など挙げれば他にもある。「男よりも女のほうが筋力が劣る分、武器を持ったらそれを誇示するようになる」この説の通りなら、むしろ、女性兵士のほうが恐ろしいことになる。他にも、女性の介護職員による弱者への暴力問題など、女性は暴力を振るわないなど単なる幻想にすぎない。
女性監督を増やせば体罰問題は解消すると短絡的な考えで進んでいくと、実際に女性監督が体罰を振るうと強力な隠蔽装置として働く危険性がある。体罰問題で女性監督にすればいいというのは、何ら体罰のことを考えていない。体罰を本当に考えると、今まで延々と体罰を繰り返してきたのは健常者であるという最も重要なところが抜け落ちている。これは、健常者であることがあまりに自明になっているからだ。体罰は健常者であることから引き起こされるという指摘が、あまりに不十分すぎる。本当に体罰をなくすのならば、身体障害者の監督を据える方向性に行くべきだ。この根本的なことを全く考えないで体罰問題を語っている報道ばかりで、体罰をなくすことなど全く考えていないのではないのか。
女子柔道問題の会見の声明文で、「柔道界を含む全てのスポーツの現場から、暴力やハラスメントがなくなることを願っている」と訴えた。全てのスポーツとは、当然に障害者スポーツも含む。しかし、この声明文を考えた当事者たちは、そのことは特に考えてもいなかっただろう。女性へのハラスメントが最も酷いと言われるが、これは間違いだ。一般的に言われているのは、「健常者の」女性へのハラスメントだ。「彼氏いるの?」もセクハラだとか言いながら、腰砕けや片手落ちと平然と言う。健常者の女性へのハラスメントで、腰砕けや片手落ちに相当するほどの酷いハラスメントは思いつかない。腰が砕けて片手がなくなって障害者になっている存在自体を抹消するハラスメントは、健常者の女性には向けられない。
女性への暴力が最低だと言うが、健常者の女性への暴力が最低なわけがない。健常者の女性は、正当防衛ができるからだ。本当に世の中で最も最悪な暴力は、正当防衛ができない障害者への暴力だが、女性への暴力ばかりが言われるところに多数派の暴力がありありと垣間見える。
NHKの報道の問題
この障害者問題は、女性差別と絡んで、ねじれた問題を引き起こしてきた。
NHKのEテレで2013年1月27日(日)の22:00から23:30に、『日本人は何を考えてきたのか <終>第12回「平塚らいてうと市川房枝」』があったので、見ていた。上野千鶴子と田中優子にNHKの女性アナウンサーがスタジオにいて色々と言っていたが、全体的に見て、とても手垢が付いた女性解放論なるものが展開されていた。
そこで、平塚らいてうの場面で出ていたのは、母性保護論争と、スウェーデンのエレン・ケイだった。平塚らいてうが出てきて、それらが出てきて時間も割いていたのに、平塚らいてうが強烈な優生思想家であったことは全く無視されて、女性解放論なるものが展開されていた。平塚らいてうは、「社会人として生存するに不適当な、悪質劣等な、非能率的な流れを、その水源においてせきとめる」(『著作集7』64)と言った。平塚らいてうは、断種を要求した。
日本のフェミニストたちと優生思想は密接に結びつき、正に「伝統」のように展開されてきた不都合な真実を隠蔽したいのは分かるが、平塚らいてうに結構な時間を割いて一言も優生思想を出さなかったのは、何とも無理がある番組構成だった。
優生思想での不都合な真実に、日本の左翼が優生思想とベッタリと貼りついてきたことがある。
『日本歴史大事典』(小学館)石崎昇子「優生思想」の項目。
歴史的には、国家による人口の質と量の管理思想として作用したためにファシズムに還元されやすいが、日本では、断種を否定する民族主義者や断種を支持する左翼も多く、優生思想的言説は複雑で一元的ではない。
反原発の左翼の根強い障害者蔑視にも、その傾向がありありと見える。
NHKの番組で、他にも印象的なものがあった。
『NHKスペシャル 悲しき雄ライオン~王交代劇 9年の記録~』が、以前にあった。この番組紹介に「女性上位」とあった。こういう表現には、非常に注意が必要だ。自然の動物番組と人間社会を密接に結びつけるのは、醜悪な社会ダーウィニズムに陥りやすいが、このNHKの番組はまさにその典型だった。この番組に通底したのは雌に値踏みされる悲しい雄ライオンという設定だったが、これを女性上位として、人間社会のジェンダーや男女共同参画にまで広げると、どういう問題が起きるのか、そのことにまるで鈍感だった。
雌のほうが上位に見えるのは雌が子孫を残せて出産できるからだが、これを人間社会に当てはめたらどうなるのか。更年期を過ぎて出産できなくなった女性や、卵子が老化した女性への扱いはどうなるのか。ライオンの世界に不妊治療などなければ、女性への人権尊重など何もない。NHKのように新自由主義と言うのも生ぬるすぎる強烈な弱肉強食社会を人に当てはめると、「女性上位」なる雌ライオンの世界は、実は全く人間社会での女性の尊重にはつながらない。強い雄と若くて出産能力がある雌が尊い世界を、NHKは女性上位の世界と描いていたわけだ。
『悲しき雄ライオン』の通りなら、障害者はゴミクズ同然となり、優生思想は全くの正当化される。社会ダーウィニズムになると全くの被害者になるのは、障害者だ。NHKは『ダーウィンが来た!』の自然番組もしているが、「社会ダーウィニズムが来た!」に番組名を変えて、NHKは社会ダーウィニズムを推奨しますとはっきりと言ったらどうか。NHKは女性のためと思って女性上位の視点で報道しているつもりなことが多いが、それは健常者の元気な女性にとって当てはまるが、一方で、障害者にとっては障害者問題を常に孕んだものであることに鈍感すぎるのが、NHKらしいところだ。
NHKが障害者お笑い番組をしていて脳性麻痺の障害者が「ちっちゃな頃から寝たきりで」などと言っていたが、これと女性差別報道の整合性も実に気になるところだ。NHKで、障害者お笑い番組に相当する女性であることを笑いにしたお笑い番組が、女性差別との抗議がきてできないのならば、障害者お笑い番組のほうが、もっと問題がある。健常者の女性よりも、障害者のほうが差別されてきた(例えば、戦時に障害児は疎開対象外だった)。女性差別報道には憤りながら、この障害者お笑い番組には「白痴の障害者のくせに面白い」とか言って、ニタニタと薄ら笑いを浮かべているのが眼に浮かんでくるのだが。
銀座メダルパレードと障害者
障害者問題で言えば、メダルの銀座パレードがパラリンピックが開催する前に行われた。障害者選手のメダルは、石コロと同じなのか。オリンピックでは、女子マラソン、ソフトボール、女子サッカーと、女性の活躍がずっと言われてきた。そして、ロンドンオリンピックでは、女性選手のほうが多くなった。今まで、女性の活躍を応援すれば、それに伴って、障害者問題も改善されるのではないかと言われてきた。同じ「弱者」で共感できるはずだからと。しかし、実際にはどうだろうか。女性の活躍が言われて女性が活躍しているのと反比例するかのように、障害者は無視され、銀座メダルパレードのような決定的なことが起こる。
障害者スポーツが無視されるのは、障害者が活躍すると、女性の活躍が目立たなくなるからという本音が透けて見える。スポーツで言われていることで、女子は筋力が劣る分、男子よりも技術力があるなどと言われる。しかし、それを言ったら、障害者のほうが筋力が劣る分、健常者の女子よりも技術力に勝ると言える。障害者スポーツが注目されると、筋力があってスピード感溢れる競技を見せるのは健常者の男子になり、筋力は劣っても技術力を見せる競技は障害者になり、健常者の女子選手は中途半端な存在になる。それを恐れて、障害者スポーツを押さえ込んで、オリンピックでの健常者の女性の活躍に一極集中しているかのような報道をしてきたのではないのか。
女子選手は恵まれない環境だったことを理解しろと言うが、それと比較して障害者の状況を言っている報道を見たことがない。健常者の女子選手はオリンピックに出たら注目され、メダルを取らないでも地上波の主要テレビで中継されてきた。女子サッカーもメダルを取れていない時から、テレビで中継してきた。障害者選手はメダルを取っても、連覇しても、全く注目されない。いつも、健常者の女性のところで堰き止められ、障害者はいつも無視されてきた。最近はオリンピックでの女子選手の活躍のためには、障害者を蔑ろにするのを正当化しているような報道をしている。
軍隊と女性と障害者と戦争の定義
健常者の女性のところで堰き止められるのは、あちこちにある。軍隊は、女でもできるという言説もそうだ。今の先進的な軍隊では、無人機の操縦やサイバー攻撃の重要性が増している。確かに、女性もできるというのは正しいが、なぜ、そこで終わるのか。無人機の操縦やサイバー攻撃であるなら、障害者でもできる。女性でもできると言う時に、そこに障害者が入ってくるとどうなるかというのがしょっちゅう抜けている。サイバー攻撃の重要性がますます増している現在では、障害者が戦争を主導する時代に突入することになる。
戦争の定義は、大幅に変更しないといけない。今までの戦争を男の戦争と言って、狭量なフェミニストが批判するのは滑稽だ。女性兵士もいて、ソ連の女性兵士は暴れまわって市民の男性を強姦までしていた。今までの戦争は健常者同士のいざこざであって、健常者型の戦争だったことを直視できないのは、「健常者であること」が自明になっているからだ。今までの健常者型の戦争がだんだんと薄れていき、障害者が戦争を主導する時代に突入するのは、何を意味するのか。
国の定義が大きく変わるのは、戦争の定義が変わる時だ。障害者が戦争に貢献する力が大きくなればなるほど、障害者の人権をもっと重要視しないといけない流れになるだろう。障害者が戦争を主導する時代であるにも関わらずに、変わらない障害者差別を続けていくのならば、健常者は障害者から手痛い仕打ちを受けることになるだろう。
よしながふみ『大奥』がすごいって?
よしながふみ『大奥』がすごいと言うので読んでみたが、何がすごいのか分からなかった。『土佐日記』を出すまでもなく、男女逆転自体がありふれた題材だ。本当に斬新な逆転の発想は、健常者と障害者を逆転することだ。健障逆転にすることで、健常者社会の滑稽さを浮き彫りにして、健常者社会の反省を促す。その描写では「健常者のくせに偉そうに」などと出てくることだろう。よしながふみには、こういう描写はできない。健障逆転にすると、女性差別を訴えてきた健常者の女性自身が健常者であることにへばりついて、障害者差別を続けてきたことなども描いて反省を促す描写もしないといけないので、よしながふみに、そんな描写ができるはずもない。健障逆転という斬新な発想で描けるものは、いるのだろうか。よしながふみ『大奥』とは、比較にならない斬新な発想だ。
山口博『こんなにも面白い日本の古典』(角川ソフィア文庫)に、枕草子がある。
第二話 家庭なんて、おっかしくって 「生ひ先なく」の段
平凡な結婚して、将来の希望もなく、ただ馬鹿正直に、夫の出世などつまらぬ幸福の幻を追って生きるような女を、私は軽蔑するわ。しかるべき人の娘は社会に出て、世の中の有様も体験するべきよ。「勤めをする女は軽薄だ」などと言う男など全く憎ったらしいわ。
これは、遠い遥か昔の清少納言が『枕草子』で言っていたこと。よしながふみ『大奥』は、ジェンダーの視点で見て、特に目新しいことがないばかりか、間違っているところがある。女が男を買春するのを男女逆転として描いているが、実際に、江戸期に女たちは買春していたので、何ら男女逆転になっていない。日本の歴史では、男の暴力として買春を出してそれで終わることはできない。
『日本歴史大事典』(小学館)の「陰間(かげま)」と「男色」の項目。どちらの項目も、鈴木章生による。
陰間の項目には少年の陰子(かげこ)に関して、以下の記述がある。
後家や御殿女中を相手に男を売ったりもした。
男色の項目には、以下の記述がある。
江戸では芳(よし)(葭)町を筆頭に市中に陰間茶屋がたくさんあり、美少年は女性客に男を売って商売をした。
よしながふみ『大奥』のファンタジー史観を実際の正史を元に緻密に練られているなどと言っている者たちは、その正史なるものを何と考えているのか。実際のその正史なるものは、よしながふみが考えているほど単線的なものではない。新渡戸稲造『武士道』はファンタジー武士道だが、とても人気がある。ファンタジー史観に陶酔する者が、よしながふみ『大奥』や新渡戸稲造『武士道』、小林よしのりの歴史ファンタジーなどに惹かれるのだろう。
夫婦別姓の滑稽な報道
夫婦別姓の報道も、実に奇妙な報道がなされている。2011年1月8日付けの『信濃毎日新聞』の記事に、「「別姓は家族の絆を崩壊させる」といった反対論がある。論理に飛躍が過ぎないか。たとえば、韓国は夫婦別姓だが、家族の結びつきの強さで知られる」とあったが、論理に飛躍があるのは『信濃毎日新聞』だ。韓国の夫婦別姓は妻を夫の家には入れないというもので、対等でも何でもない。『信濃毎日新聞』は、韓国のように妻を別姓にして家系に入れず、妻を単なる付属品と見なすことで家族の絆が強まるとでも言いたいのか。
こういう全くの見当違いなことが、夫婦別姓で言われ続けている。日本は東アジア圏に存在して、その中で夫婦別姓を主張することは、東アジア的な色濃い夫婦別姓を主張することになるということへの問題意識があまりに浅すぎるどころか、むしろ、韓国の夫婦別姓などを持ち上げてしまう現状を見ると、夫婦別姓には慎重にならないといけない。
夫婦別姓を推してばかりいる報道を見ると、夫婦別姓になると同姓にするのが時代遅れというキャンペーンを張り、そして別姓派が多くなり、夫の姓を名乗ることが多くなるとどうなるのか。それはやがて今よりも夫の姓にとんでもなく価値を置き、妻が夫の家系に入れないという思想も入り込むかもしれない。その時になって、初めて愚かな夫婦別姓派は気付くだろう。夫婦別姓は失敗だったと。しかし、そうなった時に気付いても、もう遅すぎる。要するに、夫婦別姓をすることによって、夫婦同姓で夫婦が対等の位置に付いていたところから、妻が付属品になることを推し進めることに夫婦別姓が使われるようになる。この問題は、『信濃毎日新聞』の記事にも見える。
そもそも、明治民法に対する認識が間違っている。夫婦別姓にすると、この姓を継がせろという封建的な闘争をやりだすことを排すのが、夫婦同姓にした明治民法の役割でもあった。明治民法で明言したのは、妻を夫の家系の一員として認める。明治民法(1898(明治31)年に施行)「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」(788条)「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」(746条)は、女性抑圧ではなく、むしろ逆だった。短絡的な夫婦別姓論は、滑稽な封建制度をいくらか引きずることになるかもしれない。
栗本薫『グインサーガ』
栗本薫の言ったことは、何度見ても驚くことばかりだ。『グインサーガ』は高評価を得てアニメ化され、栗本薫は今でも尊敬される対象になっている。この栗本薫の言うことに倣えば、アダルトビデオのレイプ描写は、女性の権利を擁護し女性差別に対する抗議と言っても問題がなくなる。こういうのを見ても、ボーイズラブが偏見を大いに撒き散らしてきたことは疑いようがない。
『グインサーガ』「魔の聖域」の後書きで栗本薫が「(グインをヤオイにしたからと言って怒るのは)「あなた自身のホモに対するゆえなき偏見」を証明するものでしかないと思う。ヤオイというものは私にとってはある意味「ホモや同性愛やすべての少数派」に対する差別への抗議から始まっています」と書いてある。「強姦紛いのアナルセックスシーンや、障害者がいたぶられるシーンを書き散らす事が、なぜ同性愛者の擁護や差別に対する抗議になるのでしょう」という批判に対する、栗本薫の無自覚な正当化ほど酷い例はあまり見たことが無い。女性差別の時には大声で叫び出す多数派の女性が、BLにはニタニタと薄ら笑いを浮かべて栗本薫並のことを思っているのも少なくないのだろう。
女性差別報道の整合性
毎回、女性差別関連の報道を見ていて思うのは、女性は歴史的に差別されてきたから、優先するのは当然と言う主張だ。これは、女性問題「だけ」を見ると正しいかに見える。しかし、他の人権問題との比較では、これは全く正しくない。日本で歴史的に差別されてきたのは、被差別部落の人たちだ。その被差別部落の人たちへの国の同和対策事業は、2002年に完全に終了している。ここから、どんなに歴史的に差別されようとも、国からの援助は終了することが見て取れる。しかし、『週刊朝日』の橋下徹の同和記事や、その関連での橋下徹への同和叩きなどを見ると、被差別部落への差別がなくなったとは、とても言えない。それでも、差別による特別救済には、終わりがある。被差別部落への差別がなくなったと言っているのは、新たな同和利権が欲しい日本共産党などだ。
被差別部落の件で全く間違っているのは、歴史的な差別と現実的な差別を混同していることだ。歴史的な差別では被差別部落だが、現実的に最も生きるのが困難なのは障害者や難病の人たちだ。現実的に健常者の女性が最も差別されているなど妄想も甚だしいことだが、障害者問題よりも女性問題を優先しているのは、単なる数の論理にすぎない。歴史的にも現実的にも他に遥かに差別されてきた人たちがいるのに、多数派の全くの健常者の女性を優遇するなど、何の根拠があるのか。これこそ、差別利権の代表になっている。寺子屋で多くの女性が学び、江戸の女師匠が19世紀の初めには3分の1を超えていた(『日本歴史大事典』「女師匠」)ことなど、歴史的に他の先進諸国の女性と比べても、日本の女性が特に差別されてきたとは言えない。ましてや、日本の女性が最も差別されていたとか、何を見て言っているのだろうか。
国立に女子大学があるのに、遥かに学ぶのが困難な歴史を持ってきた障害者大学が無いことも、実に不思議なことだ。聴覚・視覚に障害の筑波技術大学でなく、身体障害者全般も含めての日本障害者大学を設立して、障害者しか入学できない大学を設置するべきだろう。予算の問題があるなら、差別利権になっている国立女子大学を廃止した予算を当てればいい。障害者スポーツの観点から見ると、障害者選手育成のための障害者大学があってもいい。
障害者問題を出すと、経済的損失を言うのがいる。女性の雇用問題を考えてみればいい。経済優先の男社会を是正するために、女性の雇用枠を設置してまで増やしてきた。それがいつのまにか、経済的に女性の活用が必要だと、経済問題に摩り替わった。人権問題で始めたのが、経済問題になった。経済優先を是正するために始まったのに、いつのまにやら、女性雇用が経済的と言い出した。それでは、女性に対する優先枠をなくすかと言えば、それはしない。人権問題を優先するのならば、障害者雇用を増やすしかない。そして、健常者の女性にあまりに偏った予算を障害者に振り分けることになる。経済優先で行くのなら、経済的公平性のために、女性に対する優先枠をなくさないといけない。結局、障害者問題を出すと、今までの既定の女性問題の路線は大いに反省を強いられる。
今まであるところに女性が少ないと言ってきた時に、そこに全く障害者がいないことは完全に無視されてきた。障害者差別をなくそうと言っても、各論になると反対してきた。福祉予算が健常者の女性に行きすぎているのを障害者に譲ろうと言うと、途端に口ごもりしだす。歴史的・現実的に見て、健常者の女性に予算が行きすぎているのは差別利権だと言うと、苦虫を噛み潰したような表情をする。やがて、各論で健常者の女性の権利が奪い取られると被害妄想し、障害者にバックラッシュの言動をしだす。自己責任はおかしいと言って健常者の女性には大変に様々な面で配慮しながら、自己責任を押し付けられると本当に困る障害者のことは放ってきた。障害者が戦争を主導する時代に突入することは、健常者の優位性が今までより低下することだ。そんな時代に、変わらない障害者差別をいつまでも続けられるわけがない。
ミスコンテストの女性差別報道も一面的で、ミスコンで出てきたのは全て健常者の女性であって、そこで見せてきたのは「健常者らしさ」であるという点がすっかり抜け落ちている。ミスコンが女性差別で終わるのなら、なぜ、ミスターコンテストがあるのか。ミスターコンテストはミスコンよりも相当に数が少ないが、実際にある。絶対に健常者しか出してこなかったコンテストにおいて、性別による差別で女性が差別されているなど、健常者の無自覚さの表れだ。コンテストで見せてきたのは健常者だ。ミスコンの根幹にあるのも、実は障害者問題であると言ってきたミスコン批判にはお目にかかったことがない。障害者問題に無自覚で来たフェミニストが障害者ミスコンに女性差別などと言い出したら、何のお笑いだろうか。
あとは、昔から定番なのは、売買春報道のいい加減さだ。そもそもの売春防止法は、売春自体を処罰するものではないのに、そこから間違って、女性差別に無理やり結び付けていることが非常に多い。以下にも書いてあるが、上野千鶴子などがデタラメなことを言っている。売買春関連を考えると、共産党や社民党が自由を求めるリベラルなど、強烈な皮肉だろうか。
障害者表記について
障害者の表記について、障がい者にしろなどと言ってくるのがいる。それは、障害者を別個のイキモノとして見ていて、健常者と障害者は全く違って、健常者のほうが絶対優位だと思っている。健常者よりも視覚障害者のほうが視覚がない分、視覚に頼らないで生きていける力で健常者よりも優れているとも取れる。健常者が目にマスクをして歩いてみればいい。障害者のほうが劣っていると健常者が当たり前に思っているが、健常者は健常であることに乗っかっている分、災害や事故で障害に遭うと、あたふたしだして対応ができなくなる。健常者は、劣った障害者の面があるのではないか。障害者は障害がある分、健常者が絶対に頼りにしている「健常さ」がなくても生きていける力を持っている。
健常者の中にも実は障害者問題を抱えていて、健常者も実は障害者の一員であると認識して初めて、健常者も障害者問題を考えるようになる。結局、自分に関係があると思わないと人は動かない利己的なもの。健常者と障害者を別個のイキモノにしないで、新たな関係性を見出すために、意図的に障害者と言っている。
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2013年3月掲載