藤本由香里の漫画描写の女性差別批判

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2次元児童ポルノ規制派は私たちの土俵に乗ってくれると思い込む素朴な反対派


漫画やアダルトゲーム(エロゲ)の表現の自由への規制をしようとする東京都の2次元児童ポルノ規制条例が、問題になっている。表現の自由を規制しようとする条例には反対だが、反対派に表現の自由を規制する理論を提供してきた者がいる。

「東京都青少年健全育成条例改正を考える会」の共同代表に、明治大学の準教授の藤本由香里と、弁護士の山口貴士がなっている。藤本由香里が、「虚構と現実を区別しろ」という反対派の声の渦の中にいるのが不思議でならない。藤本由香里こそが「漫画の虚構が現実の世界を傷つける」という理論を提供してきた張本人だ。

藤本由香里は、『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』という本を書いている(ここで引用しているのは、全て朝日文庫)。これは、少女漫画を分析した日本の文献では代表的なものだ。そこで藤本由香里は、後の引用文にあるように「マンガだから、というものではないのである」と言っている。藤本由香里は、規制賛成派に都合のいい種を撒いてきた自覚があるのか。

藤本由香里以外にも、少女漫画の現実の構築性を言ってきた者がいる。横森理香『恋愛は少女マンガで教わった』(集英社文庫)の「まえがき」にも、「少女マンガに恋愛・結婚観を教え込まれていた」「私たちはまったく、少女マンガにその脳を侵されている」「少女マンガからすべてを教わってしまった私たちは、実にそのとおりにしか、生きられなくなってしまっている」とある。

『いとしさの王国へ―文学的少女漫画読本』(マーブルトロン)のはじめにある「文学的少女漫画のいざない」にも、「女の子の<生きる>ことの入口にはいつも少女漫画があった」「私たちは少女漫画でできている」とある。「私たちは少女漫画でできている」というのは、非常に露骨に、少女漫画という虚構と現実の区別ができないということだ。

藤本由香里が漫画の2次元描写の女性差別を批判する姿勢は、女性の仕事の場面でさらに厳しくなる。『私の居場所はどこにあるの?』322頁で、「一見女性の仕事に理解を示す男の態度がはたして本物か、というのも厳しく問われる」、336頁では、「形だけの安易なワーキングガールものもあとをたたず、とんでもないくらいひどい作品があるというのもまた事実である」と言って、藤本由香里が気に入らないその描写について「たとえ読者を励ますためだとしても、冗談も休み休みいってほしい」と言っている。

『私の居場所はどこにあるの?』(朝日文庫)337頁には、以下の記述がある(太字強調は引用者)。

 こんな作品が出てくるのはやはり、編集者の側に、どうせ女の子はまともに仕事をする気なんかないのだからこのぐらいのイメージでお茶を濁しておこう、という侮りの気持ちがあるからではないだろうか。安易なビジネスもの(?)はかえって女の子たちの足をひっぱる。マンガだから、というものではないのである。

藤本由香里ははっきりと、「マンガだから、というものではないのである」と言い切っている。この延長にあるのが、規制だ。

『私の居場所はどこにあるの?』349頁

さすがに男性誌(?)だけあって、その描き方にはどうにも一面的なところがあったことは否めない。実際、私はこの頃の『スピリッツ』を読みながら、同僚と「なに、これ。一見女の味方のような顔をして、『スピリッツ』ってほんとはすっごく女性差別的なんじゃない?私たちはふつうに働いているだけよねえ」と、よくむかっ腹を立てていたものだ。

藤本由香里は男性誌の仕事の描写を女性差別と批判し、そして「マンガだから、というものではないのである」とも言っている。藤本由香里こそが漫画の描写を女性差別と言い、それで漫画の描写を萎縮させ、漫画規制へとつながる論理を述べている張本人だ。

藤本由香里は、『私の居場所はどこにあるの?』で漫画の女性差別が許せないと何度も言っている。それは、エロ漫画の女性差別の描写が許せないという規制賛成派とどこが違うのか。むしろ、その論理を通せば、なおさらエロ漫画は規制しなければならなくなる。藤本由香里は成人女性が読む漫画にある仕事上の女性差別を言っているのだが、漫画の性描写は小学生や中学生の女子に対する問題でもあるからだ。成人女性の漫画の描写を女性差別で問題だと言うのならば、小学生や中学生が読む漫画にある性描写は、さらに問題になる。

漫画の女性差別批判の延長で男が上げ底されているから女の力が発揮できないなどと言っているが、それを言うなら圧倒的に上げ底されているのは障害者に対する健常者だ。藤本由香里は女性差別を言っているが、障害者などの少数派の歴史認識がどれだけあるのかが分からない。多数派の女が少数派を差別してきた歴史を認識しているのかが分からない。マイノリティに目を向けられない者が、差別などと口出しするべきではない。

藤本由香里は『私の居場所はどこにあるの?』の350頁に、「女の頭にあるのは権利と夢だけ?―『いいひと。』の女性差別」と項目を立ててまで、漫画描写の女性差別批判をしている。

『私の居場所はどこにあるの?』350-351頁

 ところがこれらの作品は、ヒロインに肩肘はって「男に負けたくない」と叫ばせることで、(作者が意識しているかどうかはともかく)彼女たちが闘おうとしているものが「男社会の偏見と結託」ではなく「男の有能さ」であるかのように錯覚させるのだ。とりわけ『いいひと。』にはその傾向が顕著である。

藤本由香里は作者がどう思おうが関係ないから、女性差別の描写はやめろと言う。他にも、「女性たちの持つ有能さや働く力が、ほとんどまったくといっていいほど表に出てこない」「まったくどこかから「だから女は」「女はいいよなあ、気楽で」という声が聞こえてきそうだ」などと言っている。エロ漫画の描写で女性の持つ有能さが全く出てこず、「だから女は」という描写は山ほどあって性欲の捌け口にしかなっていない女の描写だらけなのだが、藤本由香里の主張ではそういうエロ漫画を規制しろという方向になる。

『私の居場所はどこにあるの?』の355-356頁では、漫画の女性差別の描写に気に食わない藤本由香里の怒りが頂点に達したようだ。

『私の居場所はどこにあるの?』355-356頁

 まったく、けっ、と言いたくなるような展開ではないか。だいたい同じ行動を男子学生が取るかぁ?
(中略)
この選択はとうてい現実的なものではない。まさに、一生自分で食べていく必要のない、いざとなれば結婚すればいいと思っている「女ならではの選択」ということになるであろう。
 こういうのは理想主義とは言わない。ただふわふわとした気分ばかりが先行して、夢を実際の現実的な力で裏付ける術を知らない、ただの馬鹿である。私は、一見考え抜いたようでいて、その実何の一歩も踏みださないということを決めたにすぎないこんな選択を、女だからといって安易にさせないでほしいのだ。男なら絶対しないこんな選択を、女ならするってか?ばかにするんじゃない!

藤本由香里は「女だからといって安易にさせないでほしいのだ」と言っているが、虚構が現実に影響しないのならば、そんな描写には口出しをするべきではない。結局、藤本由香里自身が漫画の描写が現実に影響があることを分かっているから批判している。それで、2次元批判よりも現実の社会を批判しろという会の代表になっているのだから、笑ってしまう。

「ばかにするんじゃない!」とまで言っている。これで、藤本由香里が女性差別と思うような漫画の描写をするなという萎縮効果が働く。藤本由香里は本当に女性差別を言うのならば、多数派の女ではなく、多数派の女に抑圧されてきた少数派の女のことを考えるべきだが、障害者女性の雇用問題の認識などあるのだろうか。歴史的に差別されてきたためにする女性のためのポジティブアクションであるのならば、多数派の女ではなく、障害者女性にするべきだ。

『私の居場所はどこにあるの?』での漫画の女性差別批判は、他にも多くある。藤本由香里は「マンガだから、というものではないのである」と言って漫画の女性差別の描写を批判しているのだから、虚構は現実に影響し、フィクションと現実は区別できず、だからこそ漫画の描写で女性差別はやめるべきと何度も言っている。藤本由香里の理論は、規制賛成派に十分に使えるものだ。

規制反対派で虚構と現実を区別できると言っている者たちは、言説が現実世界を構築するということの理解がないのだろう。

「ジェンダーがセックスを規定する」とは何かとその批判

藤本由香里が『私の居場所はどこにあるの?』で漫画の女性差別を言って描写の修正を主張してきたことを考えると、ゲイを性の捌け口に利用してきたBLこそが大幅な描写の修正をしないといけない。しかし、腐女子たちは「ゲイがどう思おうが、BLはファンタジーだから関係ない」などとふざけたことを言ってきた。そのふざけた腐女子たちが『私の居場所はどこにあるの?』で藤本由香里が言っている女性差別に同意するのだから、笑止千万とはこういう時に使うのだろう。BLこそ差別と偏見を助長するのにそれをファンタジーだから関係ないと言うのならば、男性誌の女性の仕事の描写に女性差別と言えるはずがない。

追加のメモ

漫画の女性の仕事観の女性差別よりも、白人が黒人を殺しまくるゲームでの人種差別、レイプして妊娠させるゲームや、小学生をレイプしたりする漫画での女性差別のほうが遥かにひどい。反対派の代表の藤本由香里は、日常的な仕事上でもよくある女性差別を厳しく批判している。そうであるなら、極端なレイシズムや極端な排外主義、極端な女性差別を煽るものは2次元であっても特に厳しく批判しないといけない。

藤本由香里の批評に全幅の信頼を置いている者ならともかく、『私の居場所はどこにあるの?』の漫画の女性差別批評に賛同する先には、極端な女性差別があるものに対しては何らかの規制をしないといけないということにつながる。

批評と法規制は別ではなく、ポルノ規制は批評が都合よく使われてきたということを認識するべき。藤本由香里の思惑がどうであれ、規制する者たちには関係ない。その作者の思想の束縛から離れていく。フェミニストの女性差別の主張を都合よく使ってきたのが、ポルノ規制の歴史なのだから。結局、藤本由香里は規制派に好都合な種を撒いてきた。しかも、その藤本由香里が規制反対派の代表である。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2010年12月掲載


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