ミスコンの障害者問題と女性差別

ミスコンテスト(美人コンテスト)について、21世紀の現在でも相変わらず女性差別という視点でしか語っていない新聞記事や、週刊誌の記事ばかりだ。ミスコンで最も問題なのは女性差別ではなく、障害者問題である。『岩波女性学事典』(岩波書店)の加藤まどかの「ミスコンテンスト」の項目には、日本でのミスコンテストの始まりについて、以下のことが書いてある。

1891年に東京の凌雲閣で芸妓100人の写真を展示し,見学者に投票させた催しが,日本で最初の美人コンテストだとされる.

1891年から現在まで、日本でのミスコン問題は女性差別という狭い視点での大量の批判に覆われてきた。『岩波女性学事典』の「ミスコンテスト」の項目には、以下のことも書いている。

ミスコン批判の文脈では,ミスコンは,男性が女性を外見により評価し,美の基準により序列化する男性優位社会の象徴だとされる.ミスコン問題は,ミスコンは性差別であり廃止されるべきだとする主張の是非,若い未婚女性に限定される参加資格,地方自治体が主催することの是非等について議論を引き起こした.

ミスコンは若い未婚女性に限定されるから、逆に若い未婚男性限定のミスターコンテストをすればいいという主張で、実際にミスターコンテンストが行われている。女のほうが容姿で見られることは相当程度に多いが、外見は男から女だけではなく、女から男についても見られる。

男が女の容姿を判断することの批判の文脈で、最も批判されてきたことに男の買春がある。しかし、日本では江戸時代にすでに女たちは、男を容姿で判断して買春までしていたことは、ミスコン批判の文脈での俗説を覆す意味でも知っておくべきことだ。

『日本歴史大事典』(小学館)に「陰間(かげま)」と「男色」の項目がある。どちらの項目も、鈴木章生が書いている。

陰間の項目には少年の陰子(かげこ)に関して、以下の記述がある。

後家や御殿女中を相手に男を売ったりもした。

男色の項目には、以下の記述がある。

江戸では芳(よし)(葭)町を筆頭に市中に陰間茶屋がたくさんあり、美少年は女性客に男を売って商売をした。

ミスコンは「世の中で価値があるのは健常者である」という装置の一つであり、日本で19世紀からその機能を働かせてきた。しかし、優生思想の観点は全く抜けてきた。ミスターコンテストがあるように、見られる対象は男にもある程度は交換可能なものにすぎないのは、健常者同士の男女だからだ。

欠格条項や障害児教育の歴史、学童疎開の対象外になった障害児がまさに死に直面していたことなど、多数派の女たちよりも障害者のほうが歴史的に差別されてきた。現在の男女雇用機会均等法のポジティブアクションでも、差別の歴史を考えると、多数派の女たちよりも障害者の女性の雇用を促進するべきだが、当の多数派の女たちは「女」という枠組みから障害者の女性を排除してきた。

多数派の女たちのミスコン批判の文脈では、障害者はミスコン議論の俎上にも載らない。最初から排除されているか、その排除の意識すらないままに排除されている。多数派の女たちが女性差別を言う際に、少数派を抑圧している構造がありありと見える。

ミスコンを廃止しろと言う多数派の女たちによって、障害者のミスコンも行えなくしている。多数派の女たちの呑気なミスコン批判は、この世の中が健常者の論理で出来上がっていることの認識がない。多数派の女たちは、就職活動で障害者をどれだけ見たのだろうか。ある組織に女性が少ないと批判をした時に、そこに全く障害者がいないことをどれだけ認識しているのだろうか。

障害者のミスコンは日本では行われていないが、21世紀になってから初めてオランダで行われた。日本でミスコン批判をしている呑気な多数派の女たちは、自らに染み付いた健常者の暴力を反省することもなく、オランダの障害者のミスコンも女性差別であると言うのだろうか。障害者に対する偏見や差別をなくしたいという思いを込めた障害者のミスコンを、今まで障害者のことを考えずに女性差別を言ってきた多数派の女たちに批判する資格があるのだろうか。

差別論の原則は、多数派から少数派への差別問題だ。日本の多数派の女たちは自らが少数派へ差別してきた歴史に沈黙して、女性差別を言い続けてきた。多数派の女たちは自らが多数派であることを反省せずに、多数派に権利をよこせと言い、それが差別問題だと言ってきた。少数派問題は、障害者問題だけではない。

多数派の女たちの女性差別の主張が通るのは、その差別の程度がひどいからではなく、単に多数派の女たちが多数派であるために数が多く、声が大きく、多数派であるために共感する者たちが多いだけにすぎない。

2010年11月掲載


その後の追記

その後のミスコン批判でも、なぜ、これほどまでに、ミスコン批判者たちの健常者至上主義、優生思想が批判されないのかということの連続だった。やはり、女性差別よりも、障害者差別のほうが遥かに酷く、それに鈍感でありながら、女性差別には敏感であるという多数派の問題は永遠に批判されないといけない。

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