反省の女性学とは

フェミニズム批判がされる時には、大きく分けて2つの勢力に分けられる。1番目には、従来から言われる多数派男性の視点からの批判で、男性差別からの批判もこれに入ると言っていいだろう。2番目には、少数派の視点からフェミニズムを批判することだ。つまり、フェミニズム批判は全く正反対の勢力からの批判があり、当サイトでフェミニズムを批判している大きな理由は2番目である。そして、重要なのは、2番目の視点からフェミニズム批判をする時には、フェミニズムは反動勢力に見えているのだ。少数派の視点からの批判では、フェミニズムは、もはや、何も目新しいことを言っておらず、頑迷保守に映っている。


関連:クオータ制:女性枠の割り当てと人権の整合性

個人的なことは政治的なことは女性差別の特権ではない

反省の女性学とは何か。今までの歴史はHistoryで男の物語史であるので、Herstoryの必要性から女性の物語史も語られるようになる。歴史学での男の歴史ではなく、女の歴史の必要性から女性史が語られるようになる。ここまでは問題なく、時代の要請である。問題は、現状はどうなっているかだ。では、女性とは誰のことか。ここで分かりやすいのが、白人女性中心のフェミニズムに反旗を翻してきた黒人女性の存在だ。

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』が訴えることの記事にも書いてあるベル・フックスの引用文がある。

多くの黒人女性や有色の女性たちが目にしたのは、白人の特権階級女性が、改良主義的なフェミニストの改革や、人種に加えてジェンダーでもとられたアファーマティブ・アクションから、他の人種の女性よりも大きな経済的利益を得たことだった。それを目にしたとき、黒人や有色の女性たちは再び、フェミニズムとは本当は白人の力を強めようという運動ではないのかという不信感を抱いたのだった。(81頁)

フェミニズムで最も利益を得てきたのは、特権階級の白人女性のフェミニストたちである。白人の女たちは、男社会を批判しながら、白人の男たちと同じ白人だから「白人」としての同等の白人利権をよこせと言ってきたのだ。フェミニズムがこの白人利権の増長で、白人の女たちを最優先させてきたのは歴史的事実である。女性差別を言ってきた白人の女たちは、フェミニズムと白人利権を接近させてきたのだ。

では、日本ではどうか。日本でも、戦前の女性運動から現在のフェミニズムまで、最も利益を得てきたのは特権階級の日本人女性である。そして、特権階級の女性たちは、そうではない女性たちから女性間格差を指摘され、特権階級の女性たちによる差別を糾弾されると、その女性たちに向かって、女性間を分断するなと言ってきた。特権女性こそが分断している側の当事者なのに、その自覚がなく、特権階級のフェミニズムを擁護してきたのだ。

女性のあいだの違いを認めることをもっとも嫌がったのは、女性は性的階級ないし身分を形成していると主張し、「女性の共通の抑圧」という旗のもとに運動を組織しようとしてきた白人のフェミニストたちだった。(106頁)

反省の女性学とは、特権階級の女性たちや、多数派の女性たちが、そうではない少数派をいかに抑圧してきたか、そして、それを乗り越えるためにはどうすればいいのかという視点で書いているサイトである。特権階級や多数派の女性たちによる暴力を肯定するためにフェミニズムが都合よく使われているのは歴史上の史実であるが、この是正は非常に難しい。

(トリクルダウン理論を批判しながら、女性差別問題になると、健常者女性などの多数派側を擁護し、障害者の存在を無視することを厭わないなど)

そして、女性差別を出せば、他のあらゆる差別が正当化されるという問題が厳然とある。女性器切除ではどうだろう。女性器切除は女性差別であるから廃止しろと言った時に、どういう問題がそこに存在するのか。反省の女性学は、繊細な差別問題が複合的に絡む現代において、女性差別の主張を使って、他の差別を正当化することも批判している。

(参考:女性器切除にある人種差別とイスラム蔑視

あらゆる差別問題において、女性差別問題に絡むほど面倒なことはなく、絶対正義によって女性差別が糾弾されている時には、そこに存在する少数派への差別問題は徹底的に無視される。この傾向は、ウェブ上での多数派の女性たちによる言説の拡散によってさらに高まっている。しかし、反省の女性学の視点を重視しないと、強力な既得権益に成り下がった女性学は、将来、崩壊するのは確実である。

被災地の性犯罪と強姦デマが関東大震災朝鮮人虐殺に繋がったに書いてあるが、反女性差別正義とレイシズムによって約6000人もの朝鮮人虐殺に加担したのだ。在特会支持者たちも朝鮮人叩きの道具として「女性差別」を利用するのを見ても、女性差別はあらゆる差別の中でも最も軽薄なものになっている。醜いレイシストたちは「女性差別」をダシにレイシズムを丸出しにするのだ。朝鮮人蔑視を隠蔽するために女性差別を利用してきたのだ。女性差別周辺は、その女性差別を利用した朝鮮人蔑視の醜さも充満している。

性犯罪厳罰化と朝鮮人差別

女性学の問題は、男たち中心であった学問を批判して、既得権益を批判してきたはずなのに、自らが強力な既得権益になっていることである。そして、現代の繊細な差別問題が複合的に絡んでいる状況にあっては、女性学の視点での批判は、もはや、既存思考の枠内でしかない。フェミニズム、ジェンダーに絡む特権階級、多数派の女性たちの暴力を批判する反省の女性学の視点は、現代の時代の要請である。

注:当サイトの反省の女性学は、男性差別を主張しているわけではなく、現時点では、男性差別を批判している側である。

(参考:男性差別と女性差別の主張の滑稽さ

よくある誤解は、フェミニズムを批判しているのは差別主義者ではないかという短絡さだ。在日韓国人に対する差別は以前から批判しているし、障害者差別への批判は何度も書いているし、同性愛者の権利を擁護するのは当然だし、被差別部落差別が日本の歴史上で最大の差別なのは当たり前だ。さらに言えば、当サイトの著者たちは、経済的にも、緊縮財政に反対の経済左派である。

既存のフェミニズムよりも、さらにリベラルな視点からのフェミニズム批判をしている。フェミニズムに内在する排外主義などを批判している。

既存のフェミニズムには多様性の観点が欠如しているが、これを乗り越えるどころか、多様性を制限して特権階級の女性に都合よく使われるがままになっている。特権階級の白人女性のために生まれてきたフェミニズムは、特権階級のために都合よく使われる素地を十分に持ったものである。

女性差別が特権女性に私物化されてきたことへの批判をするどころか、特権女性に阿るから女性間格差が拡大する。この批判は前からあるのに、一向に改善されない。労働者の団結を言いながら、正社員以外を排除してきたこととも重なることがフェミニズムでも厳然と起こっているのだ。

田嶋陽子についての批判は書いていない。フェミニズム批判サイトだから田嶋陽子批判だろうと思っていたら、全くの期待外れでがっかりするだろう。田嶋陽子以外の学者フェミニストのほうが問題発言を繰り返してきたことを全く知らないから、田嶋陽子ばかりを批判するのだ。上野千鶴子は『マザコン少年の末路―男と女の未来』で自閉症とマザコンを結び付けているし、上野千鶴子は何度もゲイ蔑視のゲイ叩きをしている。

売春防止法:売春買春は違法で禁止だが,両方に処罰規定はないにも、上野千鶴子の間違いを書いている。

(私はフェミニズムに詳しいと気取っているネトフェミの田嶋陽子観の間違いは爆笑ものである)

さらには、フェミニズムはデマも容認してきた。進化心理学などの知見が重なっていくほど、フェミニズムが拡散してきた誤りへの批判の声は大きくなる。フェミニズムは女性差別の主張のためには、似非科学にもなる。

主流フェミニズム批判をしているつもりのフェミニストも、実はその主流フェミニズムに似たことを言っている同類である。主流フェミニズムとは違って、正義の立場のフェミニストである私という虚像も批判されるべきだ。

本来の人権救済は、多数派から抑圧されている少数派の救済だ。しかし、日本での「正常」日本人女性は障害者や在日韓国人などとは違って、数の上でも多数派である。障害者は数の上でも少数派であり、人権救済されるべき対象であるのは当然だ。しかし、数の上でも多数派である日本人女性が差別されていると喚き立てるのは、多数派が行う反動にも近くなる。

フェミニズムに大きな違和感があるのは、人権救済の観点の原則である少数派への抑圧ではなく、多数派が抑圧されていると喚いてきたからだ。そして、結果的に、多数派の日本人女性の中でも特に恵まれた女性がそのフェミニズムの特権を享受してきたのだ。この構図は、やはり、バックラッシュに似ている。

これは、「在日特権」と言って、日本人差別を喚き立ててきた在特会などとも似てないか。フェミニズムによって、多数派の日本人女性への差別が言われ続けてきたことと、日本人差別が言われてきたことの近接性がある。フェミニズムによる日本人女性差別の告発が、在特会などの日本人差別の告発と類似しているという指摘もしておく。

(日本人が在日韓国人差別をするのは日本人の問題なのに、「いや、元々の人種差別は白人の問題だから、有色人種の日本人には責任はない」と言ったりするのと、「多数派女性が少数派差別をするのは、元々の男社会の権力を持った男が原因だから女性は被害者」と言うことの類似性も)

障害者の女性など少数派の女性の人権救済に重点を置くのではなく、多数派の日本人女性の人権を声高に言ってきたのは、それのほうが世の中に浸透しやすいからだ。フェミニズムは、差別告発の仮面を被った多数派論理を言ってきたのだ。人権救済の観点を改善し、少数派から多数派への告発にすると、多数派女性によって成立しているフェミニズムは崩壊してしまう。

「個人的なことは政治的なこと」も、結局、多数派女性に最も有利に働き、他の障害者の視点から「個人的なことは政治的なこと」を批判する時に女性の人権と衝突すると、健常者女性の権利を最優先してきた。「産む産まないは女が決める」と言った時に、障害者の視点が欠如していることなどを見ても明らかだ。

今まで女性差別が言われ、男特権を批判してきた女性たち自らにある健常者特権、非被差別部落特権、異性愛者特権、日本人特権などについてどれだけ考えてきたのか。健常者天国、非被差別部落天国、異性愛者天国、そして、日本人天国の国で、日本人健常者非被差別部落の異性愛の女が最も差別されてきたと言ってきたのは、もはや、壮大なファンタジーでしかない。

これに、雑種とも言われて批判されてきた混血、ハーフ(非白人)の視点も入れると、多数派日本人女性は人権の観点で、日本での権力側に位置することがますます明白になる。

平塚らいてうも断種を支持し、日本のマジョリティフェミニストたちは、障害者のことなど大して考えてこなかった。他にも、東京一極集中、方言、右利きと左利きなどにも権力の勾配がある。権力の勾配はフェミニズムが考えるほど単線的ではなく、遥かに分散し、複雑に絡み合って混雑した道になっている。

健常者女たちの健常者特権については、パラリンピックを廃止してオリンピックに統合すべき理由とは

フェミニズムによって語られてきた女性の人権が、白人の女たちが自らにある白人(至上)主義の隠れ蓑に使われてきたことは明白な歴史の事実だ。日本でも、障害者差別を隠すための方便としてフェミニズムが使われてきた。フェミニズムが特に恵まれた多数派の女たちにとって都合がいい少数派への抑圧手段になっていることは、何度強調してもしすぎることはない。

障害者問題を語っても、「でも女性差別のほうが問題」などと横槍を入れて、結局、健常者の女性への女性差別に摩り替えてきた。多数派の女たちの権利主張をいい加減に制限しないと、障害者などの本当の少数派の声は封殺されるばかりだ。

よく言われるガラスの天井は、健常者の女性がガラスの天井なら、障害者にあるのは分厚い鉄板が100枚くらい重なった天井だろう。ガラスの天井なら外から中を見ることはできるし、割ることもできる。鉄板は中は見えないし、割ることもできない。その鉄板が100枚くらいあるのと、ガラスの天井一枚の健常者女性で、健常者女性こそが被害者であると叫びまくってきたのだ。

フェミニズムの歴史を百年後に振り返った時に、フェミニズムは恵まれた女たちの自己弁護のダシに使われたもので、女性間格差を拡大させることに奉仕してきたと記されるようになるだろう。

フェミニズムの古く新しい定義

  • 「権力側の女たちに権利を集約して、女性間格差を拡大させるもの」

フェミニズム理論で、ポスト構造主義ジェンダー論の到達点と言っているのが「ジェンダーがセックスを規定する」である。この理論は別に大したことを言っていないのに、誇らしげに到達点と言っている。フェミニズム理論は別に大したことを言っていないので、驚くに値する理論などない。

(参考:「ジェンダーがセックスを規定する」とは何かとその批判

(ちなみに、男性学も批判している。理由は、男性学が言っていることはナンパ師の男のように女性を口説いて気に入られようとしてきたわけで、例えば、男性の自殺率が高いことを軽く見てきたのも男性学)

男女の自殺率格差とジェンダー:女性が周縁・他者になる理由

人類の歴史とは健常史のことであり、障害者は徹底的に迫害されてきたから、健常者の女も反省しろ。健常者の女が、障害者を差し置いて、歴史的な被害者と言うとは何を考えているのか。

「日本は大東亜戦争でアジアの解放のために戦った」と、「フェミニズムは女性の解放のために戦った」はどちらも両方批判されるべきで、前者は言うまでもないが、後者のフェミニズムは白人フェミニズムや健常者フェミニズム問題などを完全に隠蔽している。

フェミニズムは多数派女性の権利擁護ばかりしてきたことや、女性間格差を拡大させてきたことなどの反省を全くしないで女性万歳ばかりしているのは、日本国は大東亜戦争でアジアを解放した日本万歳と似ているわけだ。

女性差別という用語は、それだけに目を向けさせ他の人権を隠蔽する効果がある。愛国という用語は、それだけに目を向けさせ他の人権を隠蔽する効果がある。

《愛国心は愚か者の最後の砦。フェミニズムは愚か者の最後の砦。》


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