相模原障害者施設殺傷事件の原因と予防

2016年7月26日に起きた相模原障害者施設殺傷事件で、何が原因でどうやって予防し防ぐのかを語られない視点で書いておく。人権問題で健常者の多数派女性ばかりが大問題にされ、障害者問題が延々と放置されてきたのが問題なのだ。この視点はあらゆるところで蔓延しているが、人権派とかリベラルとか言われる層も全くこれに無頓着である。

産む生まないは女性の自己決定権であると言うのは、障害者の視点が欠如しているという指摘を言うことは今でもかなりの反発があるどころか、この障害者の視点が欠如していることばかりだ。塩村文夏への発言が女性差別と叩かれまくった時に、産む産まないは女性が決めると平然と言われていた。それは、障害者差別だという視点は一切聞く余地はなかった。多数派女性への差別問題の時には、障害者問題が徹底無視されることのあらわれである。

待機児童で大変な目にあっている女性と言う時に、お前たち健常児保育の健常者女性様よりは障害児保育の環境のほうが遥かに大変であるという怒りを発することは抑え込まれる。平塚らいてうは断種を支持したのに、女性の人権の前にはその歩みはひた隠しにされ美談で語られている。

反原発運動に女性団体が入り込み、障害者が産まれたらどうすると言ってきた。パラリンピックを廃止してオリンピックに統合すべき理由とはに書いていることだが、健常女性のスポーツでの女性差別ばかりが盛んに言われ、実態は、スポーツ分野では障害者差別こそひどいことを放置してきた。

こういうことが繰り返されてきたのは、まずは健常女性の人権状況を改善して、それからあとで障害者差別を解消するからと言って騙してきたからだ。しかし、実態は、健常女性と障害者の間の格差拡大は放置されてきている。健常女性の場合は個人的なことは政治的なことであると言って、様々なことで男女の上下関係があるとみなされてきたことが批判されてきた。

CMで健常女性の権利が踏みにじられていると感じればただちに批判されるネット社会になっているが、そもそも、CMには健常者出演が大前提で、障害者が主体になることが殆どないことを放置している。障害者差別解消法があるのに、女性差別と同じ程度に障害者差別と発することは絶対に許されない。今回の相模原障害者施設殺傷事件が起きた後のNHKスペシャルでも、ヘイトクライムとの意見紹介はしていたが、これは障害者差別に深く根ざしたヘイトクライムである。

しかし、NHKスペシャルでは差別意識と連呼し、障害者差別と言うことに抵抗し、障害者蔑視とは一切言わなかった。女性差別連呼をする報道とは正反対である。戦後に起きた殺人事件で最も凶悪な事件が障害者差別殺傷事件であるから、障害者差別と繰り返し連呼する報道ばかり溢れていいはずだ。人権の歴史を振り返れば、男女共同参画よりも健障共同参画のほうが必要であった。

しかし、健常女性への差別対策ばかりがされるのは、女性への差別がひどいからではなく、多数派であるから声が大きく優先されてきただけのことだ。男女の賃金格差ばかりが言われ、健常者と障害者の間の賃金格差は一切放置されてきた。男女の賃金格差を言っている中で、健常者の女性のほうが障害者の男性、障害者の女性よりも賃金を得ているのは、健常者の女性が健常者特権がある差別で賃金を得ているからだなどと言ったら、裏切り者という声が上がってくる。

しかし、障害者差別大量殺傷事件が実際に起きたのだから、今までの路線で対策するのは無駄である。健常者特権による優生思想を是正し、そして、健常女性の差別対策ばかりしてきたのを是正し、健常女性も障害者を熾烈に差別してきたことも批判して教育するべきだ。平塚らいてうが断種を支持した障害者差別主義者であることを義務教育化し、私宅監置も義務教育化し、健常女性よりも障害者の人権教育のほうを重視するべきだ。

例えば、バカの一つ覚えに女性への選挙権の制限がある。これで、女性差別が今でも言われている。しかし、選挙権の制限は「戦後も」障害者に対して行われてきたので、選挙権制限の実態は障害者差別こそが焦点である。優生思想で障害者を殺したのに差別意識しか言わず障害者差別と言わないで、健常者特権の糾弾も行わないし反省もしないのなら、優れた障害者から健常者は殺されても仕方がないと言われたらどうするのか。

時代の変化で優良人種の定義は変わる。単に健常者であるというだけで、パソコン技術にも劣る健常者は、車椅子でパソコン技術に習熟した障害者よりも劣化しているとして、劣った健常者を殺すべきであると。このように障害者は劣っているから殺されてきたわけで、それであれば、時代に即応できない劣った大量の健常者たちも殺されてしかるべきだとなる。要するに、障害者に対する優生思想は健常者にも跳ね返ってくる。

健常者の沽券で自分は絶対に障害者とは違うと思っているが、全ての健常者は障害者の要素を持っているのだ。眼鏡がないと見えない者から眼鏡を取り上げろ。地震で眼鏡が外れてオロオロする「健常者様」は、その時にちっぽけな健常者の沽券が剥がれ、実態は障害者であることに気付く。この眼鏡は一つの例だ。老いると、全ては障害者になって死んでいく。そうであるのに、世の中は健常者至上主義で成立して、健常女性様ばかり優遇しているから、それを是正しろと言ってきたのが当サイトの反省の女性学だ。

この反省の女性学の視点をいい加減に取り入れないから、間抜けな健常者の沽券による健常者至上主義の優生思想で、実際に、障害者差別大量凶悪殺人事件が起こったのだ。あらゆることで障害者差別と告発できる社会に変えるべきであるが、そうなると、あらゆることで女性差別と告発してきた社会が制限されることになる。既述の産む産まないは女性の自由と言った時に、障害者差別を一斉に差別告発できる社会にするのだ。

そして、健常女性は平塚らいてうが断種を支持し、私宅監置をしてきて、スポーツ分野で最大抑圧者を偽装してきたのに、自分たちが差別されてきたとばかり声高に言って、障害者差別を隠蔽するなと激しく抗議されるようになる社会が、障害者にとっての個人的なことは政治的なことであることが実現する社会だ。健常女性への雇用促進で補助金や女性枠があるのは、歴史的な男女の権力の上下関係があるからだ。

しかし、なぜ、健常者と障害者の権力関係を重視して、障害者枠こそ重視して報道されないのか。そして、これは当然のことだが、障害者枠は健常者との権力の上下関係が関係しているから、障害者差別を熾烈にしてきた歴史を持つ健常女性の出世も制限して、障害者枠にするべきだとなる。健常女性という多数派の人権問題に重きを置き過ぎて、最大の抑圧者と偽装することの捏造を暴いて、障害者差別に注力するようにしないと、優生思想が蔓延し、障害者差別凶悪殺人事件が再び起こるだろう。

そして、そんな障害者差別凶悪殺人事件が起きると、障害者側の怒りが爆発して健常者殺しが起きるかもしれない。しかし、女性差別の怒りで女性たちはさんざん過激なデモをしてきたわけで、それに対して、障害者の怒りが私たちには向かないようにとしてきた。健常女性より熾烈な差別を受けてきた障害者が健常者殺しをしても、健常女性でさえ過激なデモをしてきたのだから許されるべき状況で執行猶予が付いてもおかしくない。母親の子殺しでは、男社会だからと執行猶予が付いているのだから、障害者の健常者殺しも障害者差別の健常社会だからと勘案されないとおかしい。

間抜けなことは、閉塞した状況を打破するには女性指導者と言って、なぜ、健常女性になるのか。健常者至上主義を打破するには障害者が必要であることを健常女性を使って障害者差別を隠蔽しているのだ。女性ならではの視点とは、健常女性様の視点で障害者差別することか?障害者大量虐殺事件が起きたのに、その後の報道では健常女性の視点やら女性差別ばかり取り上げられて、障害者差別と発することがいかに禁句であるか改めて認識できる。

障害者を障がい者表記に変えて「障害者差別に敏感な私」と偽装捏造するのはやめて、そんな言葉遊びよりも、実質的な障害者差別にいい加減に向き合うべきだ。

健常女性専用のものが多数あるが、障害者専用のものをもっと増やしてはどうか。これだけの障害者虐殺事件が起きたのだから、あらゆる場所での障害者専用席や障害者専用室などの障害者特別優遇で、障害者専用ホテルや、障害者専用バスなどに限らないこともどんどんしていくべきだが、これには、健常女性様も逆差別と言う。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2016年8月掲載



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