クオータ制に存在する重大な問題とは

女性へのクオータ制に反対するのは、今までの議論と推移を見ているからだ。なぜ反対するのかの結論だけ先に言えば、他の人権問題との整合性が全くないからだ。なぜ、女性枠を作って女性に特別に割り当てするのか?

この答えは非常に単純で、男女の権力の上下関係を是正するためだ。それで、歴史的な男女の権力関係も考えて、現在の男たちを制限してでも現在の女たちを優遇するのだ。

歴史的反省からの差別の是正が、女性へのクオータ制だ。なるほど、一見すると人権上は正しいようだが、しかし、全く間違っているのだ。なぜ、クオータ制で健常者の女を優遇するのか?それは、障害者から見れば健常者特権だ。

なぜ、クオータ制で異性愛の女を優遇するのか?それは、同性愛者から見れば異性愛特権だ。なぜ、クオータ制で非被差別部落の女を優遇するのか?それは、被差別部落から見れば非被差別部落特権だ。

なぜ、クオータ制で日本系日本人を優遇するのか?それは、日本系外日本人から見れば、純日本人特権だ。クオータ制が問題なのは、多数派の恵まれた女たちを最も抑圧されてきた女たちと歴史捏造し、本当に深刻な人権問題よりも恵まれた女たちを優遇するからだ。

最初の、障害者問題ではどうなるのか。相模原の障害者施設での障害者差別で障害者が殺されまくっても、健常者の女性の視点の重要さとか、女性差別ばかりが取り上げられている。

相模原障害者施設殺傷事件の原因と予防

バカの一つ覚えに女性は選挙権を制限されてきた女性差別と未だに言っているが、障害者は「戦後も」選挙権を制限されてきたわけで、選挙権制限の最大の抑圧は障害者に向かっている。

紛れもない日本国籍を有する障害者であっても、健常者の女よりも障害者のほうが遥かに選挙権制限の期間が長い。戦前の私宅監置や、断種、スポーツ分野での障害者に対する差別など、障害者への抑圧は健常者の女より遥かにひどいことなど上げればきりがない。

平塚らいてうは断種を支持しながら女性の人権と言っていたし、パラリンピックを廃止してオリンピックに統合すべき理由とはに書いてあるが、障害者選手への抑圧は健常者の女たちとは比較できない抑圧がある。

男女の賃金格差は言うが、健常者と障害者の間の賃金格差は徹底無視し、健常者の女たちと障害者との賃金格差も議論にあげないことを貫いてきた。障害者を無視し、健常者の女たちの教育の機会の制限差別ばかり言ってきたのは優生思想なのに、都合が悪くなると産まない権利があると優生思想に反発しながら、障害者のことになると健常者の女たちの優生思想を優先してきたのだ。

教育の機会均等は障害者にこそ必要なのに、障害者大学のことは全く考えず、女子大学のことばかりを優先してきた。寺子屋で女たちは師範になって教えていたし、障害者よりも健常者の女たちの教育の機会を優先してきたことの人権上の反省も足りない。

牧田りゑ子「女師匠」『日本歴史大事典』(小学館)

芸事などを教える女の師匠。近世も後期に入ると全国的に寺子屋が増大し、とくに町方では多くの娘たちが寺子屋で学ぶようになった。そのため女の師匠も増え、江戸では19世紀初めには女手習い師匠が全体の3分の1を超えていたと推定される。

幕末には全国の寺子屋の10%弱に視覚・聴覚・肢体や知能に障害をもつ子供が通学していた。江戸では24%だった(乙竹岩蔵「障害児教育」『日本歴史大事典』)。

果たして、障害者よりも健常女性の教育の機会が優遇されたのは、健常女性の機会が制限されてきたからだろうか?繰り返すが、優生思想のためである。優生思想を否定するなら、障害者教育の普及こそ進めるべきであった。

障害者は実力がないから仕方ない?そうではない。車椅子の障害者でパソコン技術が健常者と同等、あるいは優れていても、障害者を排除してきたのだ。健常女性の就職の厳しさが言われている中で、それより障害者のほうが遥かに厳しいと当然の事実を言うと、女性の足を引っ張るなと見当違いのことも言われてきた。これは逆で、障害者の足(この足を引っ張るとの表現も健常主義の賜物)を引っ張ってきたのは健常者側であることが抜けている。

クオータ制の理論で言えば、歴史的な差別の反省に立って障害者に対する障害者枠こそ必要で、現在の健常者の女たちを制限してでも障害者に枠を割り当てるべきとなる。女性へのクオータ制が障害者枠の充実よりも絶対に越えてはならないのは、健常障害史を考えれば、人権上は当然のことだ。クオータ制は人権上の措置なのに、なぜ、障害者問題では反発するのか?

障害者へのクオータ制には、健常者の女たちも逆差別と言うのだ。女性へのクオータ制の時の反応とはまるで正反対である。戦争時に女性の被害ばかり言われるが、戦争は健常者同士のいざこざで健常者の男女が起こしてきたもので、障害者こそが巻き込まれた被害者だ。

地震で健常女性が生理などで大変と一方的に喚き散らしている時に、障害者こそが大変と言ったら健常女性からの反発がものすごい。障害者は避難所に入ることさえ大変なのに、楽々避難所に入れる健常女性のほうが大変と言うなど、知性の欠片もないのに女性の人権だけは一人前に言うのだ。

クオータ制が必要なのは閉塞した状況を打破する女性指導者が必要だからと言って、そこでなぜ、健常女性になるのか。健常者至上主義を打破するには障害者が必要であるのに、健常女性を使って障害者差別を隠蔽しているのだ。女性ならではの視点とは、健常女性様の視点で障害者差別をすることか?

こういうことを言うと、また女性の足を引っ張るなと見当違いなことが言われるのだ。それに、差別があるから枠を割り当てろなら、被差別部落差別は現在でも明白に存在するが、国からの予算は打ち切られているのはなぜか。

それは、同和利権と言われて逆差別という意見が通ったからだ。これも、女性へのクオータ制とはまるで正反対のことが起こっている。女性は人権上の抑圧がひどいから男女共同参画などの女性予算が各国にあるのではない。単に数が多いから意見が通りやすく、選挙対策になるから行われているだけである。

異性愛の女性は、同性愛の男性より抑圧されてるのだろうか?それなら、なぜ、異性愛女性よりも遥かに同性愛男性は自殺しているのか?同性愛男性の自殺率のあまりの高さは、この世の中が異性愛女性のほうが楽に生きやすいことを示している。

在日韓国人が帰化して韓国系日本人の日本国籍者になっているが、ヘイトスピーチ解消法ができたように、韓国系に対する差別はかなりひどい。ゴキブリ死ね駆除しろなど、公道で盛んにデモをされてきた。こういう日本系日本人の所業を反省させるために、韓国系日本人にクオータ制をするなどなったら、日本系日本人の女たちの熾烈な差別意識からの反発がすごいのは、韓国系に対するヘイトスピーチがネット上で最もひどいことからも分かる。

要するに、障害者枠、同和枠、同性愛者枠、日本系外日本人枠などよりも、多数派女性枠への割り当てによるクオータ制を導入するなど、人権上で明らかに間違っていることだ。

同性愛者は同性愛であることを隠す必要があるが、女性は女性であることを隠す必要はない。韓国系日本人は帰化しても韓国系であることを隠す必要があるが、日本系日本人女性は日本系であることを隠す必要はない。被差別部落であることは隠す必要があるが、非被差別部落日本人はどこの出身であろうと隠す必要はない。障害者になると、隠す隠さない以前に、社会から排除されまくっている。

なぜ、これほどまでに、多数派女性こそが被差別部落であるかのような位置にいる絶対的不正がまかり通り、クオータ制まで実現するのか?こんな馬鹿げた人権上の措置を続ければ、将来的に、多数派の女たちの権利を大幅に制限することは絶対正義であるとの世界合意が成立するだろう。

女性が政治に参入すると社会が多様性を認めるようになるという言説は本当か?例えば、スウェーデンを見ても移民に寛容気取りをしながら移民を受け入れたのに、結局移民を送還して、その政策をしたのはスウェーデン人であるのに移民叩きに走っているのは、政治に参入する女性が増えた結果なのか?

スウェーデンは東欧からの労働者に対する差別がひどいのは、女性参加の結果か。さらにはスウェーデン最高という意識が高まっている政党ができているのは、女性参加の証か。

女性へのクオータ制の結果起きたことは、健常者特権などを有する特権多数派女性が伸長するのを助長する悪政策であって、恵まれた女性たちをさらに恵まれた女性にするものであり、多数派女性が歴史的な差別に対する抑圧者であることの反省から隠蔽することだ。正当な権利ではない。

その証拠に、白人至上主義を守るために白人女性が使われることは歴史的にも、現在にも存在する。女性のためと言って女性を優遇するからと白人女性を登用することは、有色人種の枠を制限することになる。

しかし、女性という「社会的弱者」のための枠なのだからと白人女性を登用する正義の行為と見なされるのだ。白人の女たちは、有色人種を制限して白人専用室が用意されてきたし、黒人がリンチされているのをピクニック気分で眺めてきた白人の女たちの歴史もあるのに、白人女性は女だから弱者と偽装するのである。

この白人の件は分かりやすいが、日本でも健常者特権を伸長させるために、健常者の女たちに枠を用意する健常者至上主義の思考が蔓延している。人権上の本来の理念では、健常者の女たちを制限してでも障害者枠を用意するのが、健常者に障害者差別の歴史を反省させることにつながる政策になることだ。

このように考えていくと、女性へのクオータ制は人権上間違った方向に行くもので、他の人権問題との整合性が取れないから行うべきではないし、健常者の女たちが障害者よりも優遇されるなど人権上で明白に間違っているのは明らかだ。世の中で最大の被害者は女性であるとして、多数派の女たちを社会的弱者枠に捏造するのをいい加減にやめろ。それは明白な反動のバックラッシュである。

こういう人権の面での当然の反論をされると、経済の面で女性は重要と言い放つのだ。それでは、経済合理性を制限してでも女性の社会進出を進めてきたこととの整合性がなくなる。都合よく女性の人権と経済合理性を使い分けて、多数派女性に恩恵がある権利を主張する化けの皮はすでに剥がれまくっている。

経済合理性だけで考えて、女には出産も生理もあって使いにくいし、体力も劣るから長時間働けないので、女の社会進出を制限するべきと言うのには女性差別と熾烈に反発するのに、障害者は経済面から考えて存在価値がないから、健常者の女を優遇するのは当たり前とは、人権面を全く無視している。それなら、女たちにも経済合理性だけ考えて制限をかけてもいいのだろうか?健常者の女たちは、経済合理性を制限してでも「人権の観点から」実質上の女性枠を設けてきたから活躍できていることの自覚があるのだろうか?

役立たずな健常者より、車椅子の有能な障害者などに活躍してもらえばいいのでは?女性へのクオータ制の議論で、ここに書いた他の人権問題との整合性が付かないという発想が全く浮かばないのなら、人権という看板をさっさと外したほうがいい。それに、このクオータ制は、高齢者の責任を若年男性に擦り付けているのも悪質だ。責任世代を放置して、責任がない若年男性の権利を制限するなど、全く逆さまのことをしている。むしろ、高齢層の権利を制限するべきだ。高齢者特権を解体するべきである。

今まで、男たちにある多数派性に存する権力を批判しながら、女の多数派に存する権力は放置するとは馬鹿ではないのか?ここに書いた視点こそ、本来型の左派が言うべきことだが、女性差別が絡むと、多数派の女たちの権力を擁護するのだから、右翼も左翼も同じである(フェミニストは人権派でも何でもない)。女性へのクオータ制では、健常者、異性愛者、高収入家庭、非被差別部落、非ハーフの特権階級の女たちが優遇されるのは、白人女たちが黒人差別を無視して黒人女性を女という枠の外に置いていたこととも重なる。そして、東京一極集中の恩恵を受けた都内の女たちが最も恩恵を受ける。

多数派女性の恩恵になるクオータ制を強引にでもするなら、被差別部落がまだ明白に存在するのだから同和枠は当然にするべきで、国は被差別部落に予算を付けるべきだし、障害者に対するクオータ制は絶対にするべきだ。そして、障害者クオータ制では、健常者の女たちの枠も当然に制限するべきだ。そうでないと、人権上の整合性が全くない。クオータ制は多数派に恩恵を与えるものではない。

クオータ制は、新たな権力装置である。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2016年8月掲載で、以下追記

日本で特殊な差別と言えば被差別部落の歴史であって、今でもかなり根強く残っている。これこそ恥ずべき差別なのに、非被差別部落の女が優遇されるのは全く理解できない。女性枠をするのなら、しっかりとした同和枠予算をしないと、歴史上の差別の是正などできるはずがない。

以前に、九州大学で、理学部数学科の女子学生への女性枠を導入しようとして撤回したことがあるが、九州大学はここに書いた「クオータ制は多数派に恩恵を与えるものではない」ということがさっぱり理解できていない。差別があるための枠を設定するのなら、九州大学は障害者に対する徹底的な障害者枠などを用意して、健常女性を押しのけてでも障害者を優遇するべきだ。

しかし、九州大学でも、安易に多数派の女たちに阿る枠をして、本当に歴史上、人権が制限されてきた少数者たちのほうに向かないとは、何のための学問をしているのだろうか。

その後、大阪電気通信大学の推薦入試で女子学生に点数加算の件が問題になったが、この大学はここに書いてある論点の1割でも理解できるのだろうか?



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