ネトフェミとは

ネトフェミのことは、ネトフェミの実像とその実態に書いたが、その後もネトフェミの横暴が続くばかりだ。ネトフェミの問題は今後さらに拡大していく一方なので、ネトフェミとは何かについてもっと簡略化して書く必要をがあると思った。まず言っておくが、ネトフェミ批判をしているのは非常に広範な層であることだ。所謂リベラル層からネトフェミが批判される時には、ネトフェミとネトウヨがそっくりな構図であるという認識がある。このサイトでは所謂リベラル層が人権問題を軽視してきたことも批判しているが、そのような層からもネトフェミ批判がされている。それだけ、ネトフェミが酷いからだ。

ネトフェミはネットが産んだゴミ溜めである。

ネトフェミの問題は、他のあらゆるマイノリティの問題を差し置いて、女性差別だけを問題にして齟齬をきたすことがある。それだけではなく、ネトフェミは、自らが望む女性差別反対に同調しない社会的少数者をも叩くのである。さらには、ネトフェミは少数派の女性の視点から批判されるのを攻撃されたという反応さえする。ネトフェミはフェミという名称が入っているが、フェミニズムがどういう経緯でこれまで来たのかを全く無視して、この件でもどの文献を出せばいいのかなどは全く分からない。

ネトフェミの件で、ぴったりな文献がある。黒人女性の視点で、既存の白人女性のフェミニズムを批判してきたベル・フックスがいる。ネトフェミはベル・フックスと言われても何も分からない。ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』(新水社)には、白人女性がいかに黒人女性をフェミニズムから排除し攻撃してきたかも書いている。白人の女たちのフェミニズムは男社会への総批判であり、単純明快で、人種の観点がすっぽり抜けてきた。ベル・フックスはそれを批判してきた(しかし、現在も将来も、女性の人権の指導者は白人の女たちである)。

『フェミニズムはみんなのもの』の107頁に、「白人女性たちは、人種差別や人種的な違いがあるという現実に面と向かいたがらず、わたしたちを、フェミニズム運動に人種をもちこむ裏切り者だと非難した」とある。この本には、黒人女性の視点からの既存のフェミニズムに対する鋭い指摘が数多くある。フェミニズムを反省すること、反省の女性学という視点からも非常に重要な記述で散りばめられている。ネトフェミは、白人の女たちがしてきた愚かなフェミニズムなるものと同じ轍を踏んでいるどころか、さらにかなり劣化した状況になっている。

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』が訴えること

ポスターでの萌え絵を批判して、女性を性の対象にするのはやめろと言いながら、自らは性的少数者のゲイを玩具にしているBLが批判されると、一転してそれを正当化するのである。

反省しない腐女子とBL作家たち:ボーイズラブとホモフォビア

萌え絵に描いているのは異性愛の女性であるが、ゲイは性的少数者なので、ゲイのほうに人権問題に重きを置くのが当たり前だ。男性一般と女性一般を比べた時に、権力関係があるから女性差別が問題になるのだ。異性愛の女性と同性愛の男性では権力関係があり、同性愛の男性と分かれば、異性愛の女性のほうが権力関係で上なのは、ゲイは結婚する権利がないことなどでも明らかだ。ネトフェミが女性を性の対象にする描写をやめろと言うのは、ネトフェミが好んで見ているBL表現の描写を狭めることにつながることになる。

CMに女性が出ていない男ばかりとか、女性が男を支えるばかりというネトフェミの主張でCMが終わることも続いている。ここにもある権力関係を無視している。それは、健常者と障害者という絶対的と言っていいほどの権力関係だ。人類の歴史は、有史以来健常者の歴史である。健常者が生き残るために、この世の中は成り立ってきた。それは、社会の隅々にまで行き渡っている。CMもそうである。CMでは、健常者が大前提であることに疑問を挟まない表現ばかりしてきた。人権の優先順位でいけば、CMでの健常者の女性よりも、障害者のほうが遥かに阻害されてきている。しかし、ネトフェミは障害者のことなんか存在しない態度で、健常者の女性が排除されていることばかりしか言わない。

多数派の女たちの権利ばかり言うネトフェミは、白人の女たちの権利こそが女性の権利であるという明らかに間違ったメッセージを発してきたこととも非常に似通っている。障害者を排除することは、当たり前だが、障害者の女性も排除しているのだ。ネトフェミが女性のことを考えているとは、全くの嘘である。嘘でないのなら、障害者の女性は女ではないと言っているのと同じだ。ネトフェミが跋扈する原因は、学校教育にもある。そこの教育では、多数派の女たちがいかに差別されてきたかが熱心に教育されている。しかし、それに比べて、障害者が多数派の女たちよりさらに酷い仕打ちを受けてきたかの教育があまりに不足している。

私宅監置と聞いても、全く分からないネトフェミだらけである。自宅の小屋に閉じ込めてきた戦前の私宅監置は、今の基準では精神障害者ではない障害者も私宅監置に合ってきた。日本の女性運動の旗手の平塚らいてうは、断種を支持したのである。女性団体が反原発運動に入ってきて、障害児が生まれてきたらどうするのか、差別反対と言ってきたのである。健常者の女子スポーツよりも、世界で結果を残してきた障害者スポーツ選手は悉く無視されてきたのに、健常者の女子スポーツ選手がどれだけ大変かばかり言われてきたのである。白人の女たちが女性の権利で白人女性のことしか考えてこなかったと、正義の側から批判できるだろうか。

ネトフェミは、ネトウヨが社会的少数者の在日韓国人叩きをして、日本では日本人が差別されていると言っているのとそっくりな構図である。戦後の女性運動で女性に産まない権利もあると言ってきたことに障害者が当然に反発して、おまえたち健常者の女たちには障害者の存在が分からないと言ってきたことの障害者の懸命の発露は、今の時代でも有効なことだ。ネトフェミは、女性に産まない権利の自己決定権があると言った時に、障害者が反発してきたら、ネトフェミは障害者を叩く側に回るのである。障害者は、多数派の女性の権利のためには都合が悪い存在だ。塩村文夏が野次を受けた時に、女性には産む産まない権利があると散々言われた時に、それは優生思想であるという発言を遮る雰囲気で溢れていた。

塩村文夏へのセクハラ野次でも沸き立つ優生思想

ネトフェミというネットのゴミ溜めを産んでしまったことで、ネトフェミが増殖していくネット空間がある。ネトウヨが差別発言を繰り返すのと同様、ネトフェミによる少数者を無視し封殺するのは、ネット空間が差別者の遊び場にさらになる傾向を促すことになる。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2015年12月掲載



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