家事の無償労働論とジェンダー

「家事は労働である」と言われても些かも驚くことはないし、今となってはその理論は言い古されたものである。家事は労働であるという「発明」に対して家事は労働であるとすんなりと認めて、家事が労働であるがゆえに、家事が無償労働ではないがゆえに、それらを根拠として反論することができる。

以前、経済企画庁が『あなたの家事労働のお値段はいくらですか』の中で、専業主婦の家事労働に対する年間評価額は、約二七六万円であると試算したことがあった。家事労働論でのその評価額や、それに関することでの誤りを違う面からも指摘することができる。

上野千鶴子『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店)37頁

 問題の核心は、労働の「収入を伴う仕事」と「収入を伴わない仕事」へのこの分割、そしてそのそれぞれの男/女への性別配当にこそある。家事が「収入を伴わない仕事」であるとは、それが不当に搾取された「不払い労働」であることを意味する。この「不払い労働」から利益を得ているのは、市場と、したがって市場の中の男性である。

同書の38-39頁

家事労働は、金になろうとなるまいと、労働にはちがいなく、主婦がやらないとなれば誰かに代行してもらわなければならない。その意味で「有用で不可欠」な労働でありながら、女性に対してどんな法的・経済的な補償も与えられず、無権利状態におかれているとなれば、これは不当に報酬の支払われない「不払い労働 unpaid labor」だということになる。

ここで上野千鶴子が言っていることを、現実のそれぞれの家庭の主婦に当てはめるとどうなるのか。まず、家事は不当に搾取された不払い労働であるので、市場を媒介して競争原理を導入し、家事労働を市場の「外部」に置かないようにする。そして、誰かに代行可能である家庭の家事労働にして、夫は妻である主婦と雇用契約を結ぶとどうなるだろうか。

妻である主婦は、住宅ローンや家賃の費用を夫と折半し、住宅を購入している場合なら、その費用も夫と折半することになる。そこに住んで生活しているのだから、住み込みで働いていることになる。妻は、自分の食費は自分で支払うなど、衣食住のことは全て自分で払わないといけなくなるし、毎月の光熱費なども夫と折半することになる。

夫は妻と雇用契約を結んで、市場を媒介して給料を支払っているのだから、その妻は代行可能である一人にすぎなくなる。妻が家庭で作る料理よりも外食したほうが味も美味しいとなれば、夫は外食するようになる。妻は、夫が外食する専門の料理人たちと、料理の腕を競い合わないといけなくなる。妻の料理の腕が大衆食堂やスーパーの弁当と同じくらいなら、一食の食費で夫から得る賃金はイオンの278円の弁当と同じくらいの値段になる。その弁当よりも料理の腕がない妻とは、夫は雇用関係を断ち切ることもできる。

「家事労働に賃金を!」という主張が問題なのは、夫が妻と雇用関係を結んで市場を媒介したとすれば、借金だらけになる主婦が大量に出てくる問題を考えられないからだ。実際には、夫は妻の家事労働の借金を帳消しにしているとしか言いようがない。「家事労働に賃金を!」を徹底的に進めると、「男たちよ、賃金を支払え!」ではなく、「女たちよ、借金を返せ!」になってしまう例が幾らでも出てくる。

そういう意味で、家事労働論は新自由主義陣営との親和性も非常に高いものになる。そういう家事労働論の新自由主義陣営によれば、借金まみれになったり路頭に迷う主婦が大量に出てきても構わないのだろうし、その主婦の「自己責任」であるとして片付けるのだろう。この家事労働論には、「家事労働論に見合う労働ができる主婦だけが生き残ればいい」という思想が垣間見える。資本主義を批判してきたフェミニストたちが、資本主義を強烈に信奉してしまうという皮肉な結果になってしまう。

「家事労働に賃金を!」という主張は母の日に合わせて主張され、「母に感謝するように」という気持ちを伝えるためのネタになってしまったのは、「主婦の仕事を年収に換算すると」を読んでも分かる。主婦の仕事は、家政婦、保育士、コック、洗濯機のオペレーター、コンピュータのオペレーター、心理学者、設備員、車の運転手、最高業務執行者、用務員でもあるそうだ。そして、「それぞれプロに依頼したと仮定して、外注費用を計算しています。さて主婦の労働は一体いくらと換算されたのでしょう」などと言っている。

家政婦、保育士、コック、洗濯機のオペレーター、コンピュータのオペレーター、心理学者、設備員、車の運転手、最高業務執行者、用務員のプロと同じだけの仕事を主婦がこなせるという前提でしか成り立たないことで、主婦の仕事の年収を計算している。ここまでくると、第二派フェミニズムが盛んに主張してきた家事労働論は、実際の家事労働の現実も、日本社会の構造も分析できないイデオロギーだらけの思想になり果ててしまったとしか言いようがない。

上野千鶴子『差異の政治学』(岩波書店)104頁

 「家事労働に賃金を!」の多くの論者もまた、この要求の理論的・実践的な不可能性に直面した。あとになって、ダラコスタのように、あの要求は家事労働の価値を社会的に訴えるための戦略だった、と言い出す人も出た。ロンドンに本部をもつこの運動そのものは、実践的な課題をもてないまま、七〇年代を通じて衰退していく。

上野千鶴子は『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』の7頁で「マルクス主義者の誤りは、「市場」の支配が社会に全域的に及ぶと考えたところにあった」(原著には、者に傍点)と言っている。家事の無償労働論の誤りは、市場の「外部」にあるとする家事労働を市場の「内部」にして理論立てると、主婦たちはその競争原理によって十分な賃金を得られないという現状の分析ができなかったことだ。

お小遣い制と家事の無償労働論

家事の無償労働論の誤りは、お小遣い制から考えることもできる。マイク・マグレディ『主夫と生活』伊丹十三[訳](女性文庫)では、夫が主夫になって妻のコリーヌから家計費をもらう。コリーヌは主夫の夫に、一週百ドルの家計費でどうかと提案する。ここには、家庭の外で賃金を稼いできた者が、家庭の内にいる無賃金の者に生活費を渡すのが当然だという前提がある。それでは、日本の場合にはどうだろうか。

日本の場合にはお小遣い制が普及していて、「サラリーマンの小遣い調査」も行われている。伊藤公雄『男性学入門』(作品社)の55頁に、総理府婦人問題担当室『婦人問題に関する国際比較調査』「家計管理の最終決定権者」(1982年)が載っている。その図表にある日本の最終決定権者を見ると、夫はわずか5.2%で、妻が79.4%である。今から30年くらい前の調査で、日本の家計管理の最終決定権者の約8割は、妻であった。だから今でも、「サラリーマンの小遣い調査」が自然に行われているのだろう。

この日本でのお小遣い制の一般化を考えると、家事の無償労働論の限界が見えてくる。市場の「内部」で夫が得た賃金を、市場の「外部」にいて不当に搾取されて不払い労働の状態にいるはずの主婦が管理して、夫のお小遣いを決定し、夫が使える費用を命令しているというおかしな状況になっている。これは一体、どう理解すればいいのだろうか。

家事は無償労働で、主婦には全く夫からの賃金が支払われず、何の権限もない主婦は不当に搾取されて、その家事労働は無価値なはずであった。しかし、実際の夫たちは市場の「内部」にいて、市場の「外部」にいる主婦を排除して優越した地位にいるはずが、主婦の家計管理の決定権によって、夫は自由に費用を使うことができないのである。

家事の無償労働論では、主婦の家事労働は労働ではなく、市場の「外部」にあるとされる。しかし、お小遣い制を考えれば、主婦の家事労働が市場の「内部」にあるものだから、主婦はその「内部」で得た賃金の家計管理の最終決定権を持っていると言えるのではないのか。お小遣い制を考えても、市場の「外部」「内部」と二分的に考えて妻は市場から不当に排除されているとは言えなくなる。

他にも例えば、親は子が社会人になっても同居していたら、「社会に出て働いているのだから、家にお金を入れろ」と言う。これは、なぜか。なぜ、子が社会人であるならお金を家に入れないといけないのか。そして、なぜ主婦たちはお金を家に入れなくてもいいのか。家事の無償労働論は、このことも考えているのだろうか。

ところで、専業「主夫」の場合にはどうだろうか。専業主夫の8割くらいが、家計管理の最終決定権を持っているという「男女平等」の社会であるのだろうか?

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2009年11月掲載


全記事一覧はこちら