個人的なことは政治的

フェミニズムは「個人的なことは政治的なことである」と宣言しながら、そのフェミニズムがそれを否定してきた。健常者の女性の差別や権利を言う時には、個人的なことは政治的なことであると言いながら、障害者の個人的なことは政治的になってはならないとしてきたのだ。

平塚らいてうは女性の人権や女性差別を言いながら、断種を支持した優生思想家の障害者差別の障害者蹂躙者であった。この路線は、程度の差はあっても、平塚らいてう以後も健在である。フェミニストが障害者の権利を否定することや無視すること、障害者の権利を積極的に制限してきたことは珍しくない。

塩村文夏へのセクハラ発言時にも、産む産まないは女性が決める女性の自己決定権と叫んでいる時に、それでは障害者はどうなる、障害者差別をやめろと言うことは否定される。障害者差別の視点から、産む産まないは女性の権利を批判することは今でも、分厚い壁がある。

女性の権利を言っている時に、関係ない障害者差別を持ち出して難癖を付けるなとか未だに言われる。女性が中絶する権利は歴史的に障害者差別に向かってきたのだから、それを指摘しているわけだ。そうやって個々に起こっている女性の自己決定権が、やがては障害者の権利を踏みにじってきたのだ。

個人的なことは政治的なことであるとは、障害者の権利にこそふさわしい。しかし、これを言ってきたフェミニズムは障害者の権利を積極的に受け入れてはこなかった。積極的に受け入れてきたならば、健常女性枠よりも障害者枠のほうを積極的に推進するべきだった。

全共闘運動の時に女性差別を告発した時に、国と闘っているのに難癖付けるなと言われ、労働運動で労働者の団結を言ってるのに、女性差別の告発で団結を乱すなと言われてきたのに反発してきたのがフェミニズムだ。組織内にある女性差別を感じれば、個人的なことでも政治的な女性差別につながると批判してきた。

しかし、健常女性スポーツばかり優遇されているから障害者の視点はには難癖付けるな、異性愛女性から同性愛男性へのセクハラが酷いことは女性のセクハラ文脈で関係ない難癖だとか、個人的なことは政治的なことは女性の権利とぶつかる時には反発してきた。

しかし、スポーツ分野の差別での障害者差別の指摘、セクハラでの異性愛女性のゲイを玩具にする態度はかなり深刻な問題なので、スポーツでの女性差別や、女性へのセクハラの時でも、その批判が出るのは難癖ではない。これが難癖なら、労働運動で団結を言っている時に、女性差別を言うのは難癖であるから黙っておけになる。

しかし、多数派女性から少数派への差別を指摘することは、関係ないことを言って、女性差別を有耶無耶にしている女性差別と言ってくるのだ。これは逆で、少数派から多数派への差別告発をする機会に、多数派の女たちを使って女性差別で返して少数派差別を有耶無耶にしているのだ。

そして、少数派の中にも女性がいるので、女性差別を有耶無耶にしているのは、女性の権利とぶつかる時に障害者差別を有耶無耶にしてきたフェミニストたちのほうだ。

女性の権利というが、それは、多数派女性の権利とぶつかるときだ。障害者スポーツより健常女性スポーツの差別ばかり言うのは、障害者女性スポーツの否定でもあるのに、オリンピックの女性差別ばかり言ってきた。女性差別は難癖と言われようが指摘してきたから、今の女性差別があってこれほど大問題にされている。

だから、本来は、女性差別や女性の権利を語っている時に、他の少数派が無視されていると感じたならば、フェミニズム側は積極的に受け入れるべきで反省するべきなのだ。この視点で言っているのが当サイトの反省の女性学なのに、この視点に反発する間抜けな学者フェミニストや、ネトフェミにとっては不都合すぎるから憤りある反発がある。

「個人的なことは政治的なこと」は女性差別だけの特権ではない。個人的なことは政治的なことや、フェミニズムはみんなのものとまで豪語するのなら、パラリンピックを廃止してオリンピックに統合する「難癖」こそを執拗にするべきだったが。そこに障害者女性選手もいるのに、それを無視してきたフェミニズムが語る女性の権利とは?

パラリンピックを廃止してオリンピックに統合すべき理由とは

実際に、フェミニストたちがしてきたのは、健常者の男たちよりも健常女性は差別されているから健常男との格差をなくせ、異性愛の女性は異性愛の男より差別されているからその格差をなくせと、多数間同士の対立を煽ってきて、多数派の女たちが少数派を抑圧しているという視点は、多数派男への批判でごまかしてきた。

男女の賃金格差も健常者同士の格差であって、健常者の女と障害者の間の賃金格差は、女性差別で見えなくしてきた。これは、白人の女たちが白人男との格差ばかり言って、黒人との格差を隠蔽してきたのと類似している。「個人的なことは政治的なことである」は多数派の女たちが独占してきたのは歴史的事実なので、いい加減、少数派から多数派女への差別告発の手段としても、本来の正当性ある主張に変えるべきだろう。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2016年8月掲載



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