貧困層の母親を無視した家事育児論による分断

家事と育児を夫が協力しないと言って騒いでいるのを見ると、本当によく見ることがある。家事と育児で忍耐ばかり強いられている妻の思いを夫たちは知れと言っているのに、この日本で、どんな妻が大変なのかを全く考えていないことだらけなのだ。ここまで言っても、全くピンと来ない。今の日本では、正規労働と非正規労働に分断されている。

この分断は能力による実力によってではない。夫婦で家事と育児の分担の理想を語って目立っているのは、恵まれた層ばかりである。そして、私は日本の妻を代表して意見を言っているつもりでいるのである。日本でより大変なのは、貧困層の母親たちである。しかし、そんなことは考えないで、平均収入以上の家庭での家事の分担を見て、夫も協力しろなどと言っているのを見ると、日本の論壇なるレベルもここまで低下したかと思うわけだ。

家事や育児に限らず、私たちはこれだけ大変な目に合っていると言う時に、恵まれた層を優先して私こそ忍耐していると言うなど完全に馬鹿げている。これは、黒人差別を無視して白人「差別」なるものを語っている鈍感な愉快さとでも言えば、さすがに分かりやすいだろうか。なぜこうも、夫は家事をしないなどと声高に叫んで目立っている妻たちは、恵まれた女たちばかりなのか。

この恵まれた女たちというのに、抵抗があって、自分は違うと思っていることだろう。しかし、本当に大変なのは、インターネットも使えない環境にいることだ。今では、ネットを使うのは誰でもやっていると思うのは間違いだ。各家庭にあるネットは無料ではない。そんなことも考えもせず、自分が恵まれた女であることを全く気付いていないので、各家庭で家事をしない夫をまとめて糾弾したりするのだ。

日本で家事が大変なのは貧困層の母親たちであって、平均収入の家庭の母親ではない。しかし、正規の女性と非正規の女性間に厳然とある女性間格差を無視して、男女格差ばかり言っている正規の女性ばかりなのを見ても、女性間の分断はますます進んでいる。正規の女性は正規男性との格差は主張しても、正規と非正規の格差は温存し、正規女性と非正規女性の間の格差も温存するし、それのほうが正規女性には都合がいい。

家事で私は大変と言いながら、さらに大変な女性を無視するのにも繋がっている。貧困層の母親、あるいは、もっと言えば、外国人の母親の家事の大変さなど考えない。そんなことを考えれば、恵まれた女である私の家事の大変さよりも、貧困層の母親のほうにフォーカスが当たってしまう。結局、これは、非正規と正規で分断して、正規が非正規を無視して、私たちこそ差別されていると言っているのと似ている。

家事問題を見ても、日本が分断社会になったことがあらわれている。本来ならば、貧困層にこそ焦点を当てて、貧困層の家庭の大変さに焦点を当てるべきである。結局、ここでもまた、鈍感な既得権益層の女たちが、自分たちこそ差別されていると声高に叫んでいる構図が出てしまっている。既得権益層の女たちにとっては、貧困層の女性たちは「被抑圧層」としての女性の立場を取られる存在で、そして、自分たち既得権益層の女たちが貧困層の女性を差別していると歯向かってくる存在であることを恐れている。

だから、既得権益層の女たちにとっては、貧困層の女性たちを穢れ認定して、存在がないものとして扱うのが都合が良くなる。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2016年2月掲載



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