女性利権と差別

今の時代にあらゆることで差別と声高に言っているのは、女性差別である。まさか、差別利権の代表が、在日韓国人とは言わないだろう。在日韓国人は社会的少数派であるにも関わらず、今でも、朝鮮人を駆除しろとデモで言ってるのだから。まさか、被差別部落民とは言わないだろう。被差別部落への同和対策事業は既に終了しているし、現代の被差別部落からの糾弾など、何でも女性差別からの糾弾に比べれば生易しいものでしかない。まさか、障害者とは言わないだろう。障害者差別からの主張など、女性差別の糾弾の前にはあってないようなものだ。まさか、同性愛者とは言わないだろう。同性愛者からの差別の糾弾など、一体そんなもの存在するのかといった程度でしかない。

女性差別と言えば、何でも通る社会に近付いている。これは、男女の権力の勾配が歴史的にあるからで、それを平衡していくための過程であるからと言われる。しかし、これは最もらしいが間違っている。現在の日本では、健常者で非被差別部落で異性愛者で日本人である女性が、女性差別を声高に主張しまくっているからだ。日本に住んでいる最大の多数派の日本人女性が、日本での女性差別ばかりをあらゆるところで言っている。健常者の女たちは、障害者に何をしてきたか。

産む産まないは女の権利で障害者を選別するのを是とし異論を認めず、戦前は私宅監置を当然視し、日本版フェミニズムの旗手であった平塚らいてうは断種を支持し、女性団体が反原発運動に入ってくると原発が障害者量産機であるかのように振る舞い、あげると枚挙に暇がない。パラリンピックを廃止してオリンピックに統合すべき理由とはに書いた通りに、健常者の女子スポーツばかりがどれだけ差別を受けながら頑張ってきたかが言われて、それより遥かに酷い待遇の障害者スポーツは延々と放置されてきたのである。CMでの女性の扱いが問題になっても、そこには障害者が一切いないことには何とも思わない。

CMでの最大の問題は、人間とは健常者のことであるというメッセージをずっと言ってきたことだ。しかし、多数派の健常者の女たちは、障害者の視点をすっかり無視して、それより遥かに些細なCMでの女性蔑視なることを今でも必死に言っている。そこで、実は、健常者の女たちが障害者に差別してきたと言うと、裏切り者と言われるのである。そんな障害者差別は放置して、女性差別だけに集中しろと言うのである。障害者の女性は女の中には入らないのだろう。

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』が訴えることでも引用しているが、以下のことがよく当てはまる。

多くの黒人女性や有色の女性たちが目にしたのは、白人の特権階級女性が、改良主義的なフェミニストの改革や、人種に加えてジェンダーでもとられたアファーマティブ・アクションから、他の人種の女性よりも大きな経済的利益を得たことだった。それを目にしたとき、黒人や有色の女性たちは再び、フェミニズムとは本当は白人の力を強めようという運動ではないのかという不信感を抱いたのだった。(81頁)

つまり、フェミニズムとは、多数派の女たちに都合よく使われてきたものなのだ。そして、ネトフェミの出現である。ネトフェミは女性差別を私物化し、健常者の女たちが障害者蔑視をする権利があるかのごとく振舞う。ネトフェミにかかれば、本当に何でも女性差別になる。ネトフェミの女性利権の前には、差別利権の代表として言われてきた同和利権など何も差別利権ではなくなる。多数派女は女性差別を私物化するにも書いたが、女性差別という用語を使った歴史修正主義も平然と使われるようになっている。多数派の女たちこそ女性差別を受けてきたという声は明らかなでっち上げだが、数が多く声が大きく、間違った被害者史観で被害者ぶるので収集がつかなくなる。

まずは、健常者の女たちが障害者にどれだけ酷い仕打ちをしてきたかを徹底的に反省させないといけないが、今の状況では、それは障害者利権であると言われかねない。その逆で、女性利権こそ差別利権で最も最大で最もややこしいのに。今の日本で最も生きにくいのは障害者であるはずが、健常者の女たちの女性差別なるものばかりが注目されている。多数派の女たちが叫ぶ女性差別には、他の人権問題で言っていることの知性がない。障害者だって腫れ物ではなく笑っていいと同調しようとしたり、同性愛者も圧倒的多数派の異性愛社会に同調しようという姿勢である。やはり、問題は歴史教育だろう。

多数派の女たちがどれだけ差別されてきたかということばかりが教育され、自らのその女たちが歴史的加害者であるという女たちの加害性の問題が放置されてきている。男女の権力の勾配、男女の権力関係ばかりが言われ、健常者と障害者の間に優位にある権力の勾配を言うことが差別利権になるなど完全に間違った社会である。障害者にアファーマティブ・アクションをする時に健常者の女性とぶつかれば、障害者枠が利権だと言われる。実際に、歴史上でどんな差別を受けても、同和枠は国の制度としては終わっている。女性枠だけが突出してアファーマティブ・アクションが取られると、先にベル・フックスが言ったように、日本での多数派の女たちに最大有利に働くだけだ。

歴史的に受けた差別から回復させるため、権力の勾配を是正するためのアファーマティブ・アクションは、日本では被差別部落の人たちにも行われてきた。まだ、その差別はなくなっていないのに、国としての同和枠が終了している。同和枠は同和利権の賜物として批判されている。女性枠をするのなら、障害者の女性や被差別部落の女性、同性愛の女性や外国人の女性(白人の女たちに女性枠を用意する必要はない)たちのことは何も考えないのか。アファーマティブ・アクションはマジョリティの女たちに有利に働く結果があるし、他の障害者枠や同和枠との整合性で考えても、女性枠だけが突出するのは女性利権そのものである。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2015年12月掲載



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