人工知能学会の表紙との均衡

人工知能学会の表紙が女性差別だと言われて、人工知能学会が公式に謝罪している。

「人工知能」の表紙に対する意見や議論に関して

この件は、「反省の女性学」としているサイトで取り上げる格好の対象になった。フェミニストたちは、女性差別には甚だしく敏感だが、他の人権問題には鈍感どころか、むしろ加害者の側である。人工知能学会の表紙は問題ではないと言わないと、他の人権問題との辻褄が合わない。その理由は幾つもある。まずは、ブラック企業。人工知能学会の表紙は一学会のことだが、ブラック企業という名称は、大手メディアでも当たり前に使われ、労働問題の専門家、人権問題の論文を書いている学者まで普通に使っている。もちろん、女性差別を主張している女性たちも、当たり前にブラック企業と言っている。

ブラック企業の名称は、2013年の流行語にノミネートされた。現代の新語である。ネルソン・マンデラは2013年に亡くなった。黒人差別の歴史は非常に根深く、黒人は黒人ではない女性よりも選挙権も制限されてきた。ブラック企業のブラックは邪悪で汚く、悪徳であるという意味が込められている。女性差別と関連して考えると、分かりやすい。ブラック企業と同じ意味で、「女企業」と呼ばれたらどうだろう。労働者をこき使い過労死させ、働く者の人権を認めないのが、女企業と呼ばれたらどうだろう。ブラック企業大賞のように、女企業大賞が行なわれたらどうだろう。ブラック企業は、単にブラックだけでも使われ、「あの会社はブラックだから」なども一般的に言われる。それと同じ意味で、「あの会社は女だから」とブラックと同じように、一般的に言われたらどうだろう。ブラック企業のように、人権問題を言っている学者が女企業と使っても一切問題がないとされたらどうだろう。

ブラック企業を肯定的に使うのなら、黒人の社長がいる会社のことを黒人であることに誇りを持ってブラック企業と言うのは何ら問題がない。しかし、そんな肯定的な使い方ができないまでに、ブラック企業のマイナスの印象が広まってしまった。黒人は比喩ではなく、実際に奴隷売買が行なわれていた。しかし、ブラック企業という名称を批判すると、それは言葉狩りであるとか、ブラック企業には黒人差別の意図は一切ないと言い切る。そんなことを言いながら、人工知能学会の表紙は謝罪するまで執拗に問題にする。人工知能学会の表紙で、歴史的に女性が家事を強いられてきた歴史の再生産などと言っている者たちがいる。しかし、ブラック企業では、黒人がその日本の女性よりも遥かに虐げられてきた歴史の意味は一切無視する。

ブラック企業のことは、スプツニ子の例を見れば分かりやすい。MITメディアラボの助教だというスプツニ子(尾崎ヒロミ)が言ったことがきっかけになって、人工知能学会の表紙がネット上の一部で批判された。

Sputniko! スプツニ子! @5putniko

人工知能学会誌の表紙デザイン ひ ど す ぎ !!! うつろな目で掃除をする女性型ロボット... http://www.ai-gakkai.or.jp/?p=4923
2013年12月26日 - 15:22
https://twitter.com/5putniko/status/416091587047718913

スプツニ子は、黒人に例えて言っている。しかし、このスプツニ子はブラック企業については無自覚なままでいる。女性差別と思えば、他の人権問題との公平性がなくなる典型だ。スプツニ子は既存の枠を壊すなどと言っているが、旧態依然とした発想をしているのは、スプツニ子そのものだ。

「人工知能学会誌の表紙デザインの何がいけないの?」と言う人は、例えばアメリカの学会誌表紙が黒人や黄色人種の掃除アンドロイドだったらというのを想像してほしい。
2013年12月26日 - 15:40
https://twitter.com/5putniko/status/416091587047718913

スプツニ子は、以下のツイートにあるようにブラック企業の名称を何ら問題だとは思っていないが、一学会の表紙には女性差別であると騒ぎ立てている。

もう1つのテクノロジー発達要因であるエロ系技術開発って、あんまり学会やアカデミアで受け入れられないから、アングラに行われている。昔、卒業制作の時に話してたバイオ系研究者が「実は女の人が一番○○な時にある化学物質を出す○○を作る方法があって..」とブラックなスポンサーを探してた笑
2011年4月16日 - 0:05
https://twitter.com/5putniko/status/59150529485475840

日本の家事の歴史についても、一般的な認識とは違うことが言われている。

ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岡田章雄訳注、岩波文庫

第二章 女性のその風貌、風習について

51 ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作るために厨房に行くことを立派なことだと思っている。

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫)の145頁には、フロイスの記述について「そこで詳しくフロイスの指摘を検討しているうちに、私は、どうもこれはみな本当のことなのではないか、と思うようになってきました」と書いてある。『ヨーロッパ文化と日本文化』は、フェミニストたちが書いてあることも覆す記述が幾つもあって、短くすぐに読めるので、読んでみたらどうだろうか。

人工知能学会の表紙程度が大問題であれば、公共放送のNHKが障害者をお笑いにした番組をしていたことのほうが遥かに差別の度合いが高いが、このことは問題にはならなかった。日本の教育で本当に教育の機会が奪われてきたのは同和の人たちや障害者であって、そうではない女性は、日本ではその者たちよりは優遇されてきた(同和の場合には、現在でも教育の機会制限を言うのは同和利権)。平塚らいてうは、「社会人として生存するに不適当な、悪質劣等な、非能率的な流れを、その水源においてせきとめる」(『著作集7』64)と言った。

戦前の女子教育を障害者より優先したのは富国強兵で健常者の女性が健康な子供を産むからだが、戦後に産めよ増やせよを批判しながら、国立に女子大学があるのに障害者大学が一切ないことの論点は無視されてきた。障害者大学がないのに、健常者の女性のほうが教育の機会が奪われてきたとして国立にまで女子大学を置くのは、歴史的な捏造からくる不当な差別利権に当たる。パラリンピックとオリンピックが分かれているのも障害者差別であるが、女子選手への差別問題には熱心でもスポーツにおける障害者差別は全く無視される。

オリンピックでは女子の短距離選手を見ても男子とはかなりの差があるのに、女性もオリンピックに出ている。女性をオリンピックに出場可能にしている時点で、障害者もオリンピックに出す必要がある。オリンピックでは男子とどれだけ差があっても女子は出場可能なので、障害者も男子と混合ではなく、時間差などがあっても出てもおかしくない。それはすぐには無理だから、パラリンピックをオリンピックよりも前に開催して注目させたらいい。本来の人権問題はこういう少数派に目配りすることで、多数派の女性が声を張り上げて一学会の表紙程度を多数派の女性の観点で主張することではない。人工知能学会の表紙のことで思うのは、女性差別は人権も考えたこともない層にまで広く普及して、単なるポップな差別主張とでも言うべきものに変わったということだ。

障害者がオリンピックに出ると、筋力でスピードがあるスポーツなら健常者の男子、筋力がなくても技術があるスポーツなら障害者となって、健常者のオリンピック女子の活躍が埋没すると不安視して、障害者の活躍を制止するなどとんでもない。自動運転の技術、戦闘機の運転の簡易化などを見ても、障害者にとっての大きな機会の獲得であって、これからの時代は障害者が活躍できる社会になっていくことは間違いない。「女だから」という制約よりも「障害者だから」という制約によって歴史的にも現実的にも困難な障害者の存在を常に無視して、一学会の表紙が女性差別であると騒ぎ立てるなど、人権問題を何だと考えているのだろうか。2012年のロンドンオリンピックの銀座メダルパレードで、パラリンピックの障害者のメダル選手が一切無視されたことをどう思っているのか。健常者の女性よりも障害者差別のほうが遥かにひどいことくらい、分からないのか。

この表紙の件はミスコンのこととも重なる。今度は男の表紙にすればいいとか言われているが、そういう問題ではない。ミスコンでもミスターコンテストがあればいいとか言われるが、そうではない。ミスコンに出てきたのは全て健常者の女性であって、ミスコンと健常者、もっと言えば、ミスコンと優生思想のことはミスコン批判の文脈では言われてこなかった。フェミニストたちが言ってきた女性の権利は健常者の女性の権利であって、障害者の女性の権利は積極的に排除することがミスコンのことでも確認できる。人工知能学会も挑戦的と言うのならば、もっと障害者の視点から考えた発想をしたらどうだろう。

人工知能学会の表紙は、女性が家事に虐げられて教育の機会が失われたことの反省がないなどの声もあるが、この主張にもかなりの誤謬がある。日本の教育では寺子屋で女性が学んでいたし、指導する側の女性も多かった。それに反して、同和の人たちや障害者は教育の機会を制限されてきた。

牧田りゑ子「女師匠」『日本歴史大事典』(小学館)

芸事などを教える女の師匠。近世も後期に入ると全国的に寺子屋が増大し、とくに町方では多くの娘たちが寺子屋で学ぶようになった。そのため女の師匠も増え、江戸では19世紀初めには女手習い師匠が全体の3分の1を超えていたと推定される。

障害者のことで言っても、乙武洋匡が叩かれていたことがあった。あの乙武洋匡の入店拒否の件も、女性の件であれば問題はない。日本の女性運動でも過激な運動で女性の権利を訴えてきたが、それは当時の女性の状況を考えれば仕方なかったと肯定される。しかし、戦後になっても障害者は選挙も制限され、行動の自由も制限されてきた。乙武洋匡の入店拒否の件では、普段は女性差別を言っていた女性たちも一緒になって障害者の乙武洋匡を叩いていたのが興味深い。乙武洋匡の入店拒否の件は、女性差別の歴史的な主張に倣えば、別に叩かれることはない。

人工知能学会の表紙で表現と差別の問題が言われているが、それを言うのなら、女性によるボーイズラブの文化も実際のゲイに対する甚だしい蔑視で始まっている。反省しない腐女子とBL作家たち:ボーイズラブとホモフォビアに書いてあるが、栗本薫は『グインサーガ』の強姦紛いのアナルセックスシーンがある描写でも、やおいは同性愛者の少数派に対する抗議のためだと言っている。BLは少数派に対する問題があっても、BLの腐女子文化は公共放送のNHKも好意的に大賛同して取り上げて、フェミニストたちも女性描写の差別主張の時とは打って変わって、BLの描写を性の対象のおもちゃにしている。

女性差別がポップで軽すぎる主張になってから、女性差別と言えば何でも通るという風潮にでもなっている。女性手帳のことで批判された時にも女性差別一色だったが、あの件も本当に問題なのは障害者問題だ。安藤美姫の件で、『週刊文春』への批判の時にも同じことだ。産むか産まないかは女性が決める性的自己決定権であると学者フェミニストが堂々と言って、それでお仕舞いにする。そこにあるのは、望まない障害者は殺してしまえだけではなく、産まれてきた障害者も差別するのは自然であるという発想だ。女性手帳と安藤美姫の件での優生思想の発想からの女性差別反対の主張の波はすさまじく、女性差別の主張が広がると、障害者と健常者の女性の間の差はますます広がるばかりだ。

女性差別の主張は、全ての学問さえも超える。母乳と人工乳でも、母乳にはDHAが含まれて、人工ミルクには含まれていなかったのに、母乳との違いはないと言って人工ミルクを薦めていたのは、もはやカルトだ。母乳にある未知の栄養素を、フェミニストが全て解明できるのだろうか。進化心理学に対する大きな誤解というよりも、そもそも進化心理学が何を言っているのかも聞かずに一方的に批判することなどを見ても、フェミニストたちの誤謬を上げればキリがない。人工知能学会の表紙を問題にするのは、今までの女性運動で行なわれてきた少数派への差別から目を背けるためでもあるのだろうか。今のポップで軽い女性差別の主張は軽い音楽のようで、それでいておぞましい曲を聴いているようで、もはや宗教と呼んでもいいことも言っている。

人工知能学会の表紙の件の尾崎ヒロミ(スプツニ子)の呆れた人権感覚に、この件の続きを書いています。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2014年1月掲載



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