「ジェンダーがセックスを規定する」とは何か

上野千鶴子編『構築主義とは何か』(勁草書房)上野千鶴子「構築主義とは何か―あとがきに代えて」286頁

 荻野(引用者注:荻野とは荻野美穂)はジェンダー史学の古典となったジョーン・スコットの『ジェンダーと歴史学』の邦訳者だが、スコットはポスト構造主義のジェンダー論の理論家として、のちに世界中に流通するようになった有名な「ジェンダー」の定義、「身体的差異に意味を付与する知」という定式化を与えた。この定義はさらにクリスチーヌ・デルフィによって洗練され、「ジェンダーとは二つの項ではなく一つの差異である」ことが明示された。リンダ・ニコルソンやジュディス・バトラーは、さらに踏み込んで、「ジェンダーがセックスに先行する」、「セックスはつねに・すでにジェンダーだったのだ」と定式化した。

同書の290頁

ポスト構造主義のジェンダー論の到達点「ジェンダーがセックスに先行する」という命題は、ジェンダー・カテゴリーを欠いてセックスはありえない、すなわちジェンダーというカテゴリーを介してのみ、セックスが今日わたしたちが了解するようなかたちで二元論的・相互補完的・非対称的な存在様式をとり、そうでないようなセックスのあり方を考えることすらできない、ということを意味する。

ここで言われているような「セックスがジェンダーを規定するのではなく、ジェンダーがセックスを規定する」という指摘に、驚くことはない。

「ジェンダーがセックスを規定する」は、生物学的な男と女という性がコロコロ変わるという意味では全くない。『構築主義とは何か』(勁草書房)の「はじめに」には、「社会の構築は言語を通じてのみ行われ、そして言語こそがつねに、すでに社会的な存在」とある。ここでの「言語を通じてのみ」というところには批判があるが、「ジェンダーがセックスを規定する」は、言語による構築として考えるものである。

あるものの存在があってそれをただ後から言葉によって名前を付けているのではなく、言語による文節化によってあるものの存在を認識するようになると考えることで、理解できるようになる。この言語論的転回は、様々な方面に影響を与えることになる。

「ジェンダーがセックスを規定する」を短く言い直せば、「われわれの身体は言語的身体でもある」と言っているにすぎず、それをジェンダー化された身体に当てはめただけのことである。ヴィクトリア朝のコルセットで胴を縛るという言説によって、細い胴回りという身体が構築されていく。ハイヒールを履くという言説によって、それに合わせて足も構築されていく。体操座りも、言説による身体の構築である。言説によって身体が構築されていく例は、いくらでもある。言語という世界を通して身体が構築される。言葉には、人の行動を規制する力がある。身体の歴史は、言語による構築史でもある。

「ジェンダーがセックスを規定する」は、言説によって文節化され、恣意的な差異によってジェンダー化されたわれわれの言語的身体を、現代思想の援用によって訴えたものである。

伏見憲明『欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない 』(ポット出版)110頁

しかし、厳密にいえば、性別は身体によって成立しているというよりは、社会の規範によって区分されている、つまりジェンダーだと言うことになる。ジェンダーによってセックスは作られている、というのはこういう見方で、これは言語や認識の水準で考えれば間違っていません。性同一性障害の人たちの戸籍変更が認められたことなども、まさに性別がジェンダーであることの証左です。

ここで伏見憲明が言っている性同一性障害のことも当てはまる。さらに問題なのは、生物学的な性差も言説によって構築されてきたということだ。インターセックスの問題は、その代表的なものだ。過去も現在も、インターセックスの条件下にある幼児は、医者たちによって「矯正」されてきた。これはジェンダー規範の言説によって、生物学的性差の身体に構築されてきたことだ。

「ジェンダーがセックスを規定する」を考える際に、現代のジェンダー論は構造主義やポスト構造主義、現代思想の多大な影響の下にあるという大前提がないと、「生物学的に男と女がそんなに易々と変わると言っているのか」などの的外れな反論になる。

「ジェンダーがセックスを規定する」への批判とその彼方

「ジェンダーがセックスを規定する」は大した理論ではないし、批判されるべき論点があるし、もはや既存思考でしかなく何ら驚くにも値しないのだが、上野千鶴子はそれを「ポスト構造主義のジェンダー論の到達点」と言っているので、そうであるならポスト構造主義ジェンダー論は既存思考のかたまりと言うしかない。

真理を語る形而上学に対する批判があり、理性的判断や主体的判断という自明の前提に反旗を翻してきた現代思想がある。形而上学は、存在の根本原理を思考するという意味で存在論でもある。「ジェンダーがセックスを規定する」は哲学の形而上学批判の既定路線にあるにすぎず、それをこの地球上に存在するありとあらゆる無数のものの中で、人間の男と女というこぢんまりとした世界に当てはめただけにすぎない。

構造主義はレヴィ=ストロースとサルトルの論争によって始まったと言われて体系的にはそうなっているが、それよりも遥か昔にその根源的な指摘をした者がいた。

頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』(NHK出版)に、道元の「古仏心」の分解と並べ換えについての記述がある。その24頁に以下の記述がある(太字強調は引用者)。

 まず、分解されるということを、道元の言語観をふまえて考えてみよう。このような分解は、道元の、言葉とそのさし示すものに対する特徴的な理解を前提としてはじめて可能になる。道元の言葉には、二種類あることを先に指摘した。一つは、日常において使われている言葉で、既存の存在を前提として、それを表す、分かりやすい言葉である。たとえば、もし「古仏心」という言葉を、このレヴェルにおいて理解するならば、「昔にいた仏の持っていた心」という一つの既成事実があって、それを、この言葉が指示するというようにとらえられる。

 しかし、もう一種類の言葉は、言葉を超えた何ものか、根源的な何ものかをそのつど表し、それによって存在を成立させるような言葉である。つまり、先述の日常的な言葉が、存在が先にあり、それを表す言葉が次に生まれるというような構図の中にあるのに対して、もう一種類の言葉の方では、言葉を超えた何らかのもの(それは存在としての輪郭を持っていない)を言葉によって表すことで存在が成立するということになる。単純化していえば、この場合は、言葉が存在に先立つのである。

ここでは、二つの意味で言っている。まず一つ目は、ある存在があってそれを言語であらわしている。もう一つは、言葉によってあるものの存在が成立すると言っている。頼住光子によると、道元は「あるものの存在よりも言葉のほうが先行しており、言葉によってそのあるものの存在が成立する」と言っていたことになる。この考えは、言語論的転回である。道元は今から800年ほどの遥か昔の人物であることを考えると、現代思想と言われてきた面は実は現代思想ではなく、ジュディス・バトラーの指摘も大したことを言っていない。

ポスト構造主義の理論も古びてきた現代の進む方向性は、ケネス・J. ガーゲン『あなたへの社会構成主義』東村知子訳(ナカニシヤ出版)に詰まっている。

『あなたへの社会構成主義』277-278頁

 新たな表現の試みは、「書く」という領域に限られたものではありません。「そこに何があるか」が、表現のしかたを決定するわけではないとしたら、言葉だけを特権視する理由はありません。学問の世界において、言葉に格別の地位が与えられているのは、個人の頭の中に推論(論理的思考)が存在し、それは言葉によって表現されるという伝統的な信念によるものです。この信念に含まれている欠点については、これまでにも十分明らかにしてきました。ここで大切なのは、言葉以外の表現方法―芸術、劇、音楽、ダンス、喜劇、映画、マルチメディアなど―に対しても、扉を開くことです。そうすることによって得られるものは、非常に大きいはずです。中でも、参加できる人々の幅が広がるということが特に重要です。

『構築主義とは何か』(勁草書房)「はじめに」の「社会の構築は言語を通じてのみ行われ」というのは、「言葉だけを特権視」し、「学問の世界において、言葉に別格に地位」を与える伝統的な既成思考である。言語によってだけ構築されると考えるのは、この世界の認識がまるで足りていない。

「ジェンダーがセックスを規定する」よりも彼方にある思想として、「動物の鳴き声が人間の身体を構築する」という考え方もできる。動物の鳴き声をどう言葉にするのかは、国や文化によって違う。その違いによって違った身体の部位を使うので、身体の構築の仕方も違ってくる。これは一つの考え方にすぎない。

インターネットを考えれば、虚構のウェブ上の世界と思われるものが現実の世界を構築している例などいくらでもある。ウェブ上にあるありとあらゆる表現の渦は、現実世界が虚構世界を作り出したのか、虚構世界が現実世界を作りだしたのか、その境界線が曖昧だ。アニメの世界などに入り込んだことで言われる「二次元の世界に旅立った」というのも、虚構の世界が現実の世界を構築している。ジェンダーのように「~が先行する」とは言えない複雑さがある。

「ジェンダーがセックスを規定する」の理論を悪用して社会的言説を作りだし、それによって自らの好みのジェンダー化された身体に構築しようとしているのではないのかという疑義もある。最近の草食系男子の言説を見ると、若年層の男性に以前よりも収入がなく、将来の収入の見込みが薄い原因が大きいにも関わらず、これを無視して、実際には根拠もない言説を作りだし、そしてそのジェンダー化された身体を草食系男子として構築しようしている。これは「ジェンダーがセックスを規定する」の悪用例である。

草食系男子は似非科学 疑似科学

身体の構築性の言説に敏感になって、言語がわれわれの身体をどう構築しようとしているのか、その意図を考えないといけない。身体を恣意的な言説に支配されてはならない。

2009年12月掲載

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。


全記事一覧はこちら