『フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学』

ベル・フックスの『フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学』(新水社)―原題はFeminism Is for Everybody: Passionate Politics―は、白人の女たちが言ってきた「女性差別」に異議を唱えてきた果敢な黒人女性たちの姿が書かれている。この本は、日本での女性差別問題に絡む抜け落ちた視点をえぐるものにもなっている。特に、ネット上のネトフェミはこの本を何度も繰り返し食い入るように見て、何を言っているのか、何が問題なのかを考えながら、訴えている意味を少しでも理解したほうがいい。この本は、当サイトで言っている反省の女性学の視点とも非常に重なったことが書かれている。この本は、フェミニストが書いた本の中でも特に優れた内容になっている。

ベル・フックスは黒人女性のフェミニストの一人として、こう言っている。

人種の問題や人種差別の現実を自覚するよう、フェミニストたちに要求したこと以上に、アメリカのフェミニズムの流れを変えた出来事はない。(104頁)

そして、ベル・フックスはこうも書いている。

女性のあいだでも、人種差別と性差別とか結合して有害な分断をつくり出している。こうした事態を変えようとするフェミニズムの取り組みは、今までのところ、目立った効果を生んでいない。(109頁)

それだけ、白人の女たちに都合のいい「女性差別」を主張し、白人の女たちに適う「女性の人権」がまかり通り、フェミニズムを私物化してきているのだ。フェミニズムが言ってきたことを端的にあらわすと、男女の権力関係、男女の権力の勾配を問題にしてきたものだ。しかし、白人の女たちが私物化したフェミニズムの歴史は、未だに、程度の差はあっても、白人の女たちの私物である。白人の女たちは男女の権力の勾配は問題にしても、女性間の権力の勾配で白人の女たちが権力関係で最上位にいることを批判されるのを今でもとても嫌がる。

黒人の男性は参政権を得るものの白人の女性は女性というジェンダーゆえに拒否されそうになると、白人至上主義をかかげ、白人男性と手を結ぶことを選んだのだった。(105頁)

白人の女たちは普段は女性差別をやめろと言いながら、人種問題を指摘されると、白人至上主義になる傾向は今でもある。特に、白人の女の特権層たちは、一見、女性差別を言っているようであるが、いざとなると白人至上主義になることを恐れることはないのだ。日本は関係ないではない。今現在で最も社会で生きにくいのは、障害者だ。しかし、日本で健常者の女性が女性差別について言っている時に、それよりも障害者問題のほうが深刻だと言うと、健常者の女性は反発して健常者至上主義になるのだ。障害者差別を無視するのは、障害者の女性の存在を抹消することだ。つまり、障害者差別をしながら女性差別を語ることができるわけがない。障害者の女性は、女ではないことになるからだ。

白人女性たちは、人種的な違いがあるという現実に面と向かいたがらず、わたしたちを、フェミニズム運動に人種をもちこむ裏切り者だと非難した。白人のフェミニストたちは、まちがったことに、わたしたちがジェンダーから他の問題に焦点をそらそうとしていると思ったのだ。(107頁)

これは、権力上位の女たちが起こす典型的な反応である。権力上位の女性は、自らに都合の悪い女性差別には反対するが、それ以外は見ないことにするのは今現在でも続行中だ。日本でも、オリンピックの健常者の女子スポーツ選手がどれほど大変かを女性差別の視点から言っても、実はそれよりも遥かに障害者スポーツ選手のほうが大変な状況にあることを指摘すると、「裏切り者」という目を向けられる。そして、障害者スポーツは健常者の女子スポーツより、延々と格下の存在であり続ける。ロンドンオリンピックの銀座パレードで、女子サッカーが活躍したのを誇らしく言いながら、そこには障害者スポーツ選手が抜け落ちてきたことを考えない健常者至上主義で、フェミニズムを語っているのである。

(関連:パラリンピックを廃止してオリンピックに統合すべき理由とは

女性のあいだの違いを認めることをもっとも嫌がったのは、女性は性的階級ないし身分を形成していると主張し、「女性の共通の抑圧」という旗のもとに運動を組織しようとしてきた白人のフェミニストたちだった。(106頁)

これも、典型的な反応だ。健常者の女たちは、「健常者女性の共通の抑圧」という旗のもとでは、障害者差別という深刻な問題を引き出すのをもっとも嫌がるのである。一体全体、日本の健常者の女たちが今までしてきたことを考えると、どうして、白人の女たちと違うと言えるのだろう。日本の女たちは、白人の女たちのような惨たらしい仕打ちはしなかったと、どうして言えるのだろう。白人の女たちとは違う素晴らしい私という、日本版フェミニズムが持つ偏狭なナショナリズムである。断種を支持したのは、日本の女性運動の旗手であった平塚らいてうである。日本の女性運動は優生思想と密接に結び付いている。そして、今でも、女性差別反対の旗のもとで、障害者差別を繰り返している。

多くの黒人女性や有色の女性たちが目にしたのは、白人の特権階級女性が、改良主義的なフェミニストの改革や、人種に加えてジェンダーでもとられたアファーマティブ・アクションから、他の人種の女性よりも大きな経済的利益を得たことだった。それを目にしたとき、黒人や有色の女性たちは再び、フェミニズムとは本当は白人の力を強めようという運動ではないのかという不信感を抱いたのだった。(81頁)

これは、世界の実態を見渡せば分かる。女たちの中で、頂点に立っているのは白人の女たちばかりだ。中でも、生まれながらに恵まれた白人女性たちは、自分には実力があると勘違いして、有色女性よりも企業でのし上がっている。女性差別反対を主張するフェミニズムは、今でも、結局、白人の女たちに回収され、白人至上主義に利用されているのだ。それは、まるで、女性差別反対を主張しながら、実は、健常者至上主義に陥っている日本版フェミニズムを見ているようでもある。

ところで、この本の訳者は堀田碧だが、あとがきを見ると、ここに書いている視点は見えない。この本でベル・フックスが書いてあることを見ても、フェミニズムに対するバックラッシュが日本で起きているなどと書いている。この本は、逆である。白人の女たちのフェミニズムが、特に黒人女性に対してバックラッシュを起こしてきたことを何度も繰り返し書いている。日本に当てはめると、健常者の女たちのフェミニズムが障害者に対してバックラッシュを起こしてきたのと似ている。フェミニズムが起こしてきたバックラッシュの問題を真摯に受け入れられないと、この本を理解したとは言えない。

フェミニズムと言えば、男を敵視したものばかりというのは、特に、ネットが一般層にまで普及して、ネトフェミが跋扈しだしてからは、かなり当てはまってしまうから問題になっている。ベル・フックスの『フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学』は、男を敵視するフェミニズムなどではなく、フェミニズムが引き起こしてきたバックラッシュにも向き合い、フェミニズムの力を取り戻そうというものになっている。しかし、このベル・フックスの情熱ある問いかけは、階級最上位の白人の女たちや、健常者の女たちには目を覆いたくなるものばかりだ。本書でもフェミニズムが力を失ったと言っているが、バックラッシュを肯定するフェミニズムが落ち目になるのは歴史的必然である。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2015年12月掲載



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