複合差別とこれからの差別論

今年の2010年の『24時間テレビ33 愛は地球を救う』(8月28日~29日)では、はるな愛がマラソンランナーだった。その番組内での性的少数者の扱いに対して抗議をした人が話題になっているが、差別論を考えると疑問に思えるところが幾つかある。

【改訂版】24時間テレビにおける性的少数者の表象の問題 - Gimme A Queer Eye If You Have Two

http://d.hatena.ne.jp/cmasak/20100901/1283279044

この抗議をしている人の記事には、これからの差別問題を考える上での問題があると言わないといけない。まず、反差別という「正義」の暴力によって単線的な差別の捉え方をして、複合差別問題を置き去りにすることに繋がること。そしてもう一つの問題は、人間社会という差別社会からは、一切の差別をなくせるわけがないので、それぞれの差別の度合いを薄めていくしかないということ。あらゆる差別から自由でいられる存在は、公平中立の視座を持つ「神」なる存在だけである。

以下の記述などは、平坦な差別論につながりやすい。

http://d.hatena.ne.jp/cmasak/20100901/1283279044

同じ理由で、「叩きたいだけだろう」とか「政治的正しさにこだわるのはよくない」というコメントにも納得が行きません。あのスタジオでの「爆笑」は社会全体におけるセクシュアルマイノリティ差別の氷山の一角であり、ああいった表象のされ方がされるたびにその氷山はより固く、大きくなって行きます。私は「あの番組」の「あのシーン」の「あの表象」だけに怒っているのではありません。氷山に怒っているのです。もしこの社会にセクシュアルマイノリティ差別が全く無かったとしたら、私はあの放送に一切の苛立ちを感じなかったでしょうし、意見を表明することもなかったでしょう。例えば「ホモキメェ」という言葉にしても、もし本当にこの社会にセクシュアルマイノリティ差別がなかったら、それを社会正義の観点から批判するのは困難になりますし、そんなことをする必要も無くなるはずです(もちろん個人的に傷つく人もいるでしょうから、ケンカしたい人はすればいいと思いますが)。現状差別があるにも関わらず「叩きたいだけだろう」と言うことは、日常的に差別と向き合わなければならない状況に置かれている人たちの苦しみや怒りを矮小化する行為です。

まず、ある差別が全くなくなるということはない。現に、この抗議者も別の差別問題には鈍感である。この抗議者は、24時間テレビでの「障害者の表象のやり方については私もあまりいい感情を持っていませんが」と言うだけの問題意識の程度だが、24時間テレビが障害者の扱いに対して偏見や差別をしてきたことは明らかである。テレビで障害者を見世物にする傾向は以前からある。

性的少数者への抗議では非常に憤っていた抗議者が、障害者問題になると鈍感になる複合差別の問題がある。24時間テレビでの少数派問題は、性的少数者よりも障害者問題のほうが深刻だ。現実問題としても、日本の歴史を振り返ってみても、性的少数者よりも障害者への差別と抑圧問題のほうが深刻である。障害者の欠格条項の歴史と今でもあるその欠格条項を考えても、障害者問題は深刻な問題だ。

障害者問題をもっと根源的に考えてみると、今ここで書いている漢字にも障害者を排除する機能がある。漢字検定は日本人検定であると言うのならば、障害者は日本人ですらない。女たちが「名誉男性」と名付けて男たちを批判しても、その女たちは日本人であるという安定した大前提がある。障害者は国籍上は日本人でありながら、「名誉男性」以前の日本人に近づくための「名誉日本人」にならないといけない。障害者は、女たちが得意げに言う「名誉男性」という批判よりも、相当に深刻な「名誉日本人」を目指さないといけない。障害者の欠格条項を考えても、そう言える。

政治的正しさを主張し、24時間テレビでの性的少数者の差別問題が氷山の一角であることに憤り、差別をなくしたいと思い、日常的な差別に立ち向かわないといけないと言いながら、障害者問題になるとその政治的正しさとやらはどこかに行ってしまう。障害者問題でその鈍感さなので、他の差別問題である被差別部落問題なども絡んでくると、ますます差別問題に鈍感になるのだろう。

性的少数者問題とこれからの差別論を考える際には、外せない問題がある。以前に、『週刊金曜日』のオカマという記述を巡って問題になったことがある(『「オカマ」は差別か 『週刊金曜日』の「差別表現」事件―反差別論の再構築へ〈VOL.1〉』)。

そのオカマ問題なども考えて、これからの21世紀以降の新しい差別論が構築されていく。オカマと言うことを差別表現であるからと禁じたとしても、差別がなくなるわけがない。あらゆる差別をしない公平中立の視座を得られるのは「神」なる存在だけであるので、差別社会に生きる人たちにできることは、差別は重層的であることを認識して、それぞれの差別の程度を薄めることだ。

健常者の性的少数者が障害者に偏見を持って、「気持ち悪い」と思ったり、明らかな差別をすることはよくある。女性差別を得意げに主張する多数派の女たちが、性的少数者や障害者や被差別部落の者たちに、強烈な差別をすることもよくある。単線的な差別の主張が行き詰っているのは、女性差別を得意げに主張しながら、複合差別に鈍感なフェミニストたちを見ても明らかである。

性的少数者の抗議が、単線的な差別論にならないことを願うばかりだ。

反省の女性学とはに、当サイトの反省の女性学の趣旨を書いています。

2010年9月掲載



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